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コラム 樹海

ニッケイ新聞 2011年2月3日付け

 セラード開発は田中角栄首相が1974年9月に来伯したのを機に始まったが、その時の秘話を最近聞いた▼来伯前に立ち寄ったメキシコで田中首相は100万ドルの手土産をポンと渡し、大統領と会見して日墨学院の早期開設に関する声明を発表、設立が一気に軌道に乗った。同地代表の松本三四郎氏の100万ペソ寄付を呼び水にコロニアだけで50万ドル、進出企業が160万ドルを拠出し、あと80万ドル足りないという時に、干天の慈雨の如く100万ドルが降ってきたわけだ▼その直後に立ち寄ったブラジルでも、大農場主の市村之氏(92、新潟、現ウライ市長)が代表となって新潟県人会北パラナ支部が「日伯学園構想」を首相に提案しようとしていた、と間嶋正典同支部長(78、新潟)は明かす。新潟県が生んだ田中首相と〃ラミー王〃市村之の対面だ▼しかし、間嶋さんは「事前に田中首相の秘書には面会の約束を取り付けていたのに、当時のサンパウロ総領事館が面会を許さなかった。市村氏は予定どおり首相が宿泊するホテルまで行きながら、門前払いを食わされた」と残念そうにいう▼間嶋さんは「あの時に市村さんの協力で日伯学院を作っていたら今ごろ卒業生からは大臣クラスがゴロゴロ出ていた」と嘆息する。おそらく日伯学園構想はセラード開発推進派に食われてしまったのだ▼日本力行会の永田稠会長は「珈琲よりも人を作れ」との名言を遺したが・・・。この時に始まったセラード〃狂想曲〃により、コロニアは後の2大産組の崩壊と同時に、「大臣クラスの卒業生」をも失ったのかもしれない。(深)