ニッケイ新聞 2011年2月4日付け
「天皇陛下のことになると全てを忘れた」。1946年4月1日早朝、勝ち負け抗争の野村忠三郎殺害時に襲撃犯の蒸野太郎(1919—2009、和歌山県)が腹に巻いていた日の丸が、1月28日午後、サンパウロ市の移民史料館に寄贈された。亡き蒸野の代わりに寄贈した、脇山大佐襲撃犯の一人・日高徳一(85、宮崎県)=マリリア在住=は万感の思いを込めて、そう語った。暗殺事件だとしても、コロニア史の一部として記録されていい証言に違いない。勝ち負け抗争の襲撃に直接関わった最後の当事者である日高徳一の生涯を聞いた。(深沢正雪記者、敬称略)
当時の襲撃犯で最後に残った3人のうち蒸野太郎、山下博美(1924—2010、三重県)両人は奇しくも百周年式典で夢にまで見た皇太子殿下を眼前に見た後、相次いで冥界に旅立った。
日高は「何を言っても相手の家庭を壊してしまったのだから言い訳にしかならない。遺族から許されないことは分かっている」と65年前の記憶を辿り、「でもやったことに後悔はしていない」と言い切る。
「長いこと蒸野さんが自宅の神棚に祭ってあったのを07年に見つけた。亡くなった時、遺族が棺に入れるっていうんで『それだけは止めてくれ』とお願いした。『しかるべき処に預ける』と遺族に約束し、引き取った」と経緯を説明する。
それが1月28日に移民史料館に寄贈された。栗原猛運営委員長、山下リジア運営副委員長を前に、日高は譲渡書類にサインをした。勝ち組の中でも最も強硬だった一派の象徴ともいえる襲撃時に腹に巻いた日の丸、それが認識派の拠点だった文協の史料館に収められた瞬間だった。
終戦後、コロニアは2派に分かれて争い、血なまぐさい抗争にまで発展した。それは長い間集団心理のトラウマともいえるシコリを残したまま時が解決するのを待つ状態だった。
「確かに受け取りました。貴重なものをありがとうございます」。そう栗原運営委員長は落ち着いて返した。その言葉には、もう戦勝組も敗戦組もない時代になった、65年の恩讐を超える時代になった、との想いが言外に込められていた。
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「立派な人だ」——。日高は脇山甚作・退役陸軍大佐に自決勧告書と小刀を渡しながら、そう思ったという。
脇山は客間の中央に座ってじっくりと自決勧告書を読んだ後、おもむろに「自分は歳だから、もうそんな気力はない」と襲撃犯4人に告げた。
陸軍大佐のところに行くのだからちゃんとした格好でと中古の背広とネクタイを着用していた。金のない彼等のためにベルゲイロ街で洗濯屋「オリエンテ」をしていた小笠原亀五郎の妻が買い与えた。
日高ともう一人はすぐに拳銃を取り出して1発ずつ撃ったが、まだ脇山は動いていた。日高は「苦しませたらいけない」と思って2発目を撃って逃走した。結果的にそれが致命傷になったと警察は見ている。
「その時に僕が『問答無用』と口走ったと書かれた(『移民八十年史』168頁)けど5・15事件じゃあるまいし、そんなこと言ってない。ただ無言で撃っただけ」と歴史をただす。
どちらが正しいのか確かめ様はないとしても、当事者の証言は貴重だ。『八十年史』の勝ち負け編はDOPS(政治社会警察)資料に頼って書かれ、当事者の証言は反映されていない。(つづく)
写真=蒸野が遺した日の丸を囲んで、山下副委員長、栗原委員長、仲介役をした外山脩、日高徳一