ニッケイ新聞 2011年2月8日付け
日高徳一は1946年4月1日の元駐亜国大使・古谷重綱襲撃にも参加し、未遂に終わっている。同時に実行された野村忠三郎・元文教普及会事務長殺害事件の影響で、翌2日に臣道聯盟関係者1200人もの大検挙に事態は発展した。フェイラでよく使われているカーキ色のカッパを襲撃時に着ていたことから、「同じカッパを着ていた」との理由だけで無関係な日本人フェイランテまでがしょっ引かれた。
日高は脇山元大佐事件まで2カ月間、転々と潜伏生活をしていた。これ以上冤罪犠牲者を出さないためにと、6月2日の脇山襲撃後には全員が自首することを申し合わせていた。「捕まったら生きて還れるか分からんぞといわれ、警察に半殺しにされると覚悟していた。もしくは自警団にやられるかもしれないと」と出頭時の心境を振り返る。
「僕は〃やった〃と自首しているから拷問とかなかった。でも監獄では全然関係ない人が臣道聯盟の一員だというだけで引っ張られ、『知らない』『日本は勝った』と証言して叩かれたり拷問に遭った。取調べから牢屋に戻ってきたあるモジの臣道聯盟の人はふくらはぎを警棒でしこたま殴られ、腫れ上がっていた。僕らは看守から氷を貰って冷やしたりしていた」と昨日のことのように思い出す。
勝ち負け抗争の中でも最大の争点はテロ事件が臣道聯盟の計画であったかどうかだ。『八十年史』には、「隊員たちは襲撃に先立ち、渡辺からそれぞれカーキ色のカッパと逃走資金として500クルゼイロを受け取っていた」(203頁)と臣聯が費用を負担し、その命令により実行したように書かれている。
でも日高徳一は「そんなお金貰っていない」と明言する。「お金がないから(潜伏先の)サントアマーロからジャバクアラまで歩いた。パステルが欲しくても美味しそうな匂いをかがないように店の前を鼻をつまんで通った」と笑う。
「バストスの山本さん(溝部幾太バストス産組専務理事殺害実行犯)も島(アンシェッタ島)で初めて会った。カフェランジアとか他の町で事件を起こしたのは全然知らない人たちだった」と横の関係も否定する。
『百年の水流』の中で、外山脩は群集心理によって同時期に多発したとの説を提示する(442頁)。同様の感情を抱いている大きな集団の中で、きっかけとなる誰かの行動に影響を受けて、次々に後追い者を生む心理傾向だ。そもそもそれほど大規模な組織的行動が、当時の行動管制された日本移民に可能だったのだろうかとの疑問も浮かぶ。
臣道聯盟の命令であるかどうかはDOPS調書の〃自白〃が最大の証拠だ。しかし取り調べの時、日高は何度も「臣聯にマンダされたんだろう?」と訊かれた。警察の先入観が質問に丸見えだった。日高は「違う」と繰り返し否定したが調書には関係しているように書かれた。「『命令されたといえば罪が軽くなる』といわれたけど、そうじゃないんだから言い様がない。ポルトガル語も分からないから調書は勝手に作られてメクラ判を押しただけ」という。
「僕は臣道聯盟の青年部だったが、それを辞めて参加した。むしろ島ではアラサツーバの臣道聯盟のえらい人に聞こえよがしに言われた。『精神修養のために団体を作って公認登録をしていたのに、若いモンが余計なことするからこんな目に・・・』って。僕等は憎まれたんですよ。いらんことしたって」。
日高はこう推測する。「負け組の人は、臣道聯盟が一番大きかったから勝ち組つぶしの標的にするのにちょうど良かったんじゃないですか。それで『臣道聯盟イコール特攻隊』だっていう誤解を広めた。僕らが勝手にやったことで本当は全然関係ないんです」。
多くの資料と証言を積み重ねた『百年の水流』には、「テロ事件の最初の報道の段階で、決行者の隊名『特行隊』を『特攻隊』、それも臣連の一組織であったとする勘違いが起きた。(中略)驚くことに、これは通説となり、今日まで行き続けている。60年間も…」(469頁)と断じている。(深沢正雪記者、敬称略、つづく)