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65年前の恩讐を超えて=当事者日高が語るあの日=《9》=憑き物が落ちた瞬間=百年祭で皇太子殿下迎え

ニッケイ新聞 2011年2月18日付け

 蒸野太郎は46年4月の野村忠三郎事件後、サントアマーロ方面に徒歩で逃げ、道なき道を彷徨った。まるで彼が辿ることになる後の人生を暗示するかのような辛い逃避行であったという。
 偶然行き着いた日本人農家が同じキンターナ出身者で、顔を見るなり「太郎か」と言い、二言目には「よくやった!」と匿ってくれた。その時腹に巻いていた日の丸を預かってもらい、農作業を手伝っていた。隠密にしていたため日高が脇山事件に誘おうと探しても行方が分らなかった。でも近隣の密告で逮捕され10年以上服役した。出獄後に農家にお礼に行き、隠し持っていてもらった国旗と再会した。
 テレビ修理技術を学び、欧州系進出企業で勤務した。責任感溢れる真面目な勤務態度が認められ、役員自ら「幹部に取り立てたいから帰化しないか」と説得にきた。蒸野は毅然と断り、辞職の道を選んだ。「誇りを持って日本人として生きてきた。今さら金や地位のために国籍を捨てるわけにゃいかん」。
 一方、山下博美は野村事件では拳銃を持っていき引き金を引いたが不発だったという。脇山事件では銃すら持たずに女子供の制止役に徹しただけだったが、実行者たる日高たち以上に長い期間服役した。刑務所の労働で覚えた検査技師の仕事を出所後も一生続けた。
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 08年前半、記者に会うように日高に説得された蒸野はイマージェンス・ド・ジャポンの奥原マリオ潤の車に乗って、共同通信の名波、フリージャーナリストの外山の待つ山下宅に向かった。
 日高が口を挿もうとするたびに、蒸野は無言のうちに手で制した。もう覚悟は決まっていた。尊敬する先輩らを〃狂信者〃と呼ばせたままにしておいてはいけない。突然、蒸野は感極まった表情になり、60年もの間、胸の奥に溜めていた何かを吐き出すようにしゃべりはじめた。
 ベテラン記者の名波にとっても衝撃的な瞬間だった。「あの時は凄かった。何が起こったかという感じだった」とふり返る。奥原はその瞬間を録画した。多くの勝ち負け抗争関係者を取材したこの実録映画は今年公開される予定だ。
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 08年6月の百年祭サンパウロ市式典の入場券を手に入れるため、日高は3回もマリリアから出聖した。「皇太子殿下にお目にかかれるなんて一生のうちで最初で最後」と思い詰め、5月12日が自分の金婚式だったがかまわず出聖した。「花婿なしの金婚式。わしゃキチガイですから」と笑う。
 式典当日は〃霧の都〃らしいガロア混じりの寒空だった。サンボードロモ会場の中央を貫く行進道路を挟んで、わずか20メートルのところに夢にまで見た皇太子殿下のお姿があった。
 最前列に陣取った蒸野太郎は家族の遺影を膝の上に載せて座り、皇太子殿下が話をされる間は、立ち上がって目をつぶり祈るように手を合わせた。日高と山下は直立不動の姿勢で聞き入った。
 日高はその時の情景を鮮烈に記憶する。「まるでそこにいるのはわしと皇太子殿下だけという気分だった。本当にありがたかった」と思い出すだけで目頭を熱くした。
 式典を報じる本紙記事には次のコメントが掲載された。日高は「今日は一生で最大の日。もう明日死んでも悔いはない」と目を真っ赤にしながら語った。蒸野は「昔の人の苦労を労っていただき、天界にいる先輩たちも喜んでいるだろう。ブラジルに来た移民は棄民と言われたが、日本人の気持ちと心を忘れずに、農業発展に貢献した人々に、皇太子さまが会いに来てくれたことに感謝したい」と涙を浮かべて話した。憑き物が落ちたような清々しい顔だったという。(つづく、敬称略、深沢正雪記者)

写真=お言葉をのべられる皇太子殿下にじっと手を合わせる蒸野、手前右が日高(08年6月、百年祭サンパウロ市会場で)