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65年前の恩讐を超えて=当事者日高が語るあの日=《10・終》=日の丸に託された想い=〃戦時下〃だったあの頃

ニッケイ新聞 2011年2月19日付け

 百年祭は誰にとっても特別な瞬間だった——。夢にまで見た皇太子殿下のお姿をまじかに見た後、蒸野太郎(享年90)は09年8月、山下博美(享年86)は10年10月に相次いで冥界に旅立ち、日高は実行者唯一の証言者となった。
 蒸野の葬儀に出席した日高は「〃最後の日本人〃だった」と感じ、胸の奥に大きな穴が開くような寂しさを覚えた。人間誰しも弱みもあれば悩みもある。「蒸野さんは常々『誰にも分ってもらえんでいい。俺のしたことは墓にもって行く』と言っていたが、しゃべった後の顔を見たら、本当は最初から誰かに聞いてほしかったんじゃなかろうかと思った」と明かす。〃狂信者〃と罵られて立つ瀬もない世間に対し、頑なにならざるを得なかったのか。
 遺族は蒸野が大事に神棚に祀っていた日の丸を棺に納めようとした。彼の生涯が集約されたその国旗を、冥土の土産に持たせようとの心遣いだった。それを見た日高はとっさに制止し、「しかるべきところに収める」と説得し預かった。自分たちが一生を賭けて貫いてきた〃何か〃が、白地に紅を手縫いした一枚の布切れに込められている気がした。だが「しかるべきところ」とはどこか——悩んだ末、信頼する外山脩に相談した。「それなら」と外山が仲介を申し出て、今回史料館に寄贈された。ガラスケースに収め、外山が説明文を付け加えた。
 かつて認識派が中心になってコロニア統合のために創立した文協と、勝ち組の中でも最も強硬だった一派の〃魂〟ともいえる日の丸が融合した瞬間だった。栗原猛史料館運営委員長は「貴重な歴史としてぜひ展示したい。さっそく理事会に諮ります」と答えた。
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 恩讐を超えるには半世紀以上の長い時間が必要だった。勝ち組や臣道聯盟はおどろおどろしい〃秘密結社〃だったのか? テロ実行者は当然のこと英雄ではない。かといって〃狂信者〃と貶められたままでいい訳もない。等身大の歴史がもっと広まってもいいはずだ。コロニアは百年祭を越えて、長い間、公に口にするのも憚られた集団心理のトラウマ(心的外傷)に真摯に向き合える時代になってきた。
 もう、どちらが正しいと張り合っても仕様がない。勝ち組にも負け組にも、それぞれに日本移民らしい生き様があった。今だからこそ言えないだろうか。「勝ち」も「負け」もコロニアという一枚のコインの裏表 ——みなが等しく犠牲者だったと。両側の証言が等しくコロニア史に反映されるべき時期になったと。
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 〃島〃で「愛国行進曲」をがなって以来、カラオケすらもやらない日高だが、脇山一郎が作った『高原の花』だけは聞いたことがあるという。印象を尋ねると「よく知らんですが、なにやら悲しい歌だった」という。確かに哀調の中に〃何か〃が込められている。
 日高は証言の最後に「青春時代をカデイア(牢獄)で過ごしたが後悔はしとらん。やるべきことはやったと確信する」と言い切った。
 だがその後で、ポツリとこうも付け加えた。「人様の家庭を乱してしまったことの償いは、カデイアぐらいでは済まないと思っている。確かに自分がやった。今さら何を言っても正当化する理由にはならない。だから島流しにされた時からずっと仏壇に手を合わせて祈っている。——戦争のない平和な世界を」。普段歯切れのいいしゃべり方をする日高だが、この時だけはくぐもったような嗚咽が混じった。
 直接の戦場にならなかったはずのブラジルで、彼らは当時〃戦時下〃同様だと思いつめていた。戦争で敵を殺すのと平時での殺人事件ほど、人一人の命の重みが異なることはあるまい。しかもわずか20歳でそれを経験し、一生をかけてその違いをじわじわと体感してきた。幼少で渡伯した彼らに誰がそんな時世観を与え、償いようのない過酷な運命を決定付けたのか。
 今も胸の奥底に65年前の疼きを抱えながら、日高は毎年〃運命の夜〃に自宅の仏壇に線香を供え、静かに手を合わせる。(終わり、敬称略、深沢正雪記者)

写真=寄贈された日の丸はあえて汚れたまま。あの日の匂いが染み込んでいる