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アデウス!ゼ・アレンカール=誠実さでルーラ支える=〃言うべきは言う〃前副大統領=闘病の末、永遠の眠りに

ニッケイ新聞 2011年3月31日付け

 【既報関連】ルーラ前政権を2期8年に渡り支え続けたジョゼ・アレンカール前副大統領がサンパウロ市内シリオ・リバネス病院で29日午後2時41分に死去し、ミシェル・テメル大統領代行が7日間の服喪を宣言した。30日付伯字紙によると、元副大統領の遺体は、30日にブラジリアの大統領官邸、31日にミナス州ベロ・オリゾンテのリベルダーデ宮での葬儀の後、ベロ市内のボンフィン墓地に埋葬される。

 「アレンカール死す」—。1997年のガン発見以来、17回の手術を受けても立ち上がり、2002年の統一選で勝利したルーラ前大統領を支え続けた闘士が永遠の眠りについたとの知らせは瞬く間に広がり、各界関係者を悲しませた。
 1931年10月17日生まれのミネイロ(ミナス州人)で79歳の同氏を兄とも慕うルーラ前大統領は、コインブラ大学での名誉博士号授与のために訪問中のポルトガルで訃報に接した。前大統領の授与式出席のため同国訪問中だったジウマ大統領と共に涙ながらの会見を行った。ルーラ、ジウマ両氏は、葬儀出席のため、30日朝の授与式後、他の予定をキャンセルして帰国した。
 1967年に生地や服飾関係の大手企業コテミナス創業。400人だった従業員が11工場1万6千人に増え、欧米やメルコスルにも拠点を持つ年商10億レアルの会社に育て上げた。2002年に息子にそれを託した成功者は、父親を助けるため7歳で農園労働者達相手に物品販売を始めた苦労人でもある。
 9歳の時に学んだ算数がその後の成功に役立ったが、4時間かけ通った学校は初等教育のみ。15歳で家を出て商店で働き、18歳の時に兄から借りた金を元手に自分の店を開いた。この店は3年後に手放し、穀物販売や麺類製造なども手がけて、26歳で結婚。生地や服飾関係の会社経営に携わった後、コテミナスを創設。同州工業連盟などの要職も努めた。
 工業連盟などで指導力も発揮した同氏の政界関与は、ゼツリオ・ヴァルガスが大統領、ジュセリノ・クビチェッキが州知事に立候補した1950年から。本人の政界初挑戦は1994年の州知事選で、この時は落選したが、4年後の上議選に民主運動党(PMDB)から出馬して当選。2002年のルーラ前大統領との選挙戦以来、広く知られる存在となった。
 中道右派の自由党(PL)党首で、政策金利や税制にまで苦言を呈す元副大統領には、右派の副大統領が左派の大統領や労働者党に圧力をかけているとの批判も出たが、大統領をたてる姿勢は一度も崩さなかった。2005年末に新設のブラジル共和党に移籍したが、ブラジルや国民のため、言うべきは言うという姿勢にも拘らず、常に周囲の信頼を得、国際機関の信用回復にも貢献したのは、視野が広く相手を尊重する重厚な人柄故。希望を失わない姿や笑顔で国民からも愛され、多くの人の心を繋いだ闘士は永遠の休息に入った。