ホーム | 日系社会ニュース | 第35回県連故郷巡り=復活と懐旧のモジアナ沿線=第4回=ジャボチカバル=尽きない〃故郷〃談義=文協役員は農大教授ばかり

第35回県連故郷巡り=復活と懐旧のモジアナ沿線=第4回=ジャボチカバル=尽きない〃故郷〃談義=文協役員は農大教授ばかり

ニッケイ新聞 2011年4月21日付け

 故郷巡り2日目の27日朝、一行はリベイロン・プレット市のホテルで出発を待っていた。同市に住んでいるのに、わざわざこの旅に参加したという赤嶺新幸さん(75、沖縄)は、「ここに住んでいても意外と近くの集団地に行く機会がない」と笑う。
 「沖縄では昭和15(1935)年頃から米を食べたことなかった。サツマイモばっかりで、味噌、塩すらなかった」と1953年に渡伯した動機を語る。
 「今の天皇陛下がイギリスに行かれるのと同じ船で、横浜からサンフランシスコまで渡った」と懐かしそうにふり返る。「船の中で生まれて初めて食べたソルベッチの美味しかったこと!」。
 一方、1949年に野球をやりにリベイロン・プレットに初めてきたという一行の一人、6年前から立派なあごひげを伸ばしている四條幹雄さん(84、山梨)は戦前移民で、1935年にサントスに上陸した。ウニベルソ・チームでキャッチャー、8番打者だった。「あの頃に比べたら、すっかりきれいな町になった」と感慨深げだ。
 また、平谷勲さん(67、和歌山)=オザスコ在住=は「日系農家は少なくなっているが、サンカルロスからこっちはまだやっている人がいることを知って心強い。頑張っているなと感じた」としみじみ語った。
 移民50周年の1958年に竹中儀助氏が中心になって、南麻州ドウラードスから180キロ奥に建設された和歌山植民地に入植して、14歳から20歳までそこで苦労した。第1次から4次まで分かれて計50家族の和歌山県人が入った。
 「土地も悪く場所が不便すぎた。早い人で1年で出て、6年で7割はいなくなった」と苦い記憶を辿る。
 移民百周年の08年9月に入植50周年を祝い、ドウラードス会館で元入植者らが集まってフェスタをした。そのあと有志10人だけで元植民地を見に行ったら、支配人と結婚した日本人女性のみそこに残っていた。
 「パスタ(牧草地)になっている…」と唖然とした。「甲子園じゃないけど、そこの土をビンに詰めて持って帰って家においてある。あそこが私の〃故郷〃ですから」。この旅ならではの〃故郷〃談義は尽きない。
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 一行は午前10時にジャボチカバル日伯文化体育協会(西村哲雄会長)に到着、すぐに市内のサンパウロ州立大学(UNESP)の農大に案内された。というのも西村会長はもとより、役員がみな二世で、同農大教授だった。28年間も同文協青年会の会長を務めるアリキ・ジョルジさんは元農大幹部で、菅原アツシさんは現役教授、松尾トモマサ氏も元教授だ。
 ガイドとしてバスに同乗した松尾氏はポンペイア生まれの二世。「だから噴霧器を中心とする農業機械工学が専門です」とJACTOとのつながりを強調する。USP農学部卒業で、ロベルト・ロドリゲス元農務大臣とその次の農務大臣と同級生だった。「同じツゥルマから二人も大臣がでた」と胸を張る。
 同学内は300アルケールもの広があり、獣医学部、水産学部、バイオ工学部、農業経営学部などに分かれている。銀行も3つ、食堂、学生寮などまるでここだけで一つの町のようだ。
 「UNESPの教授で日系比率は10%ぐらい。学生は13%ぐらいかな。でも20〜30年前はもっと多かった」と日系人と農業の歴史的に深いかかわりを示唆した。(つづく、深沢正雪記者)

写真=ジャボチカバル会館の前で記念撮影する一行のみなさん(右奥に百周年記念碑)