ニッケイ新聞 2011年5月31日付け
「地震が起きたのは、ちょうど出かけようとしていた時でした。立っていられないくらいの揺れで『これは津波が来る』と直感しました」。高さ8メートルを誇る山田町の堤防から、松本トミさんの自宅までは4、500メートル。
「娘たちがすぐに車で駆けつけ、『早く!早く!』と急かされるまま、靴下片方だけで車に乗り込み、ふと後ろをふり返ると、瓦礫をのせた津波がすぐそこの角まで押し寄せてくるのが見えました。危機一髪でした」。そう恐怖の瞬間をふりかえる。
自宅は床上浸水したが、幸運なことに建物自体は無事だった。すぐ裏側にある駐車場をはさんだ家から町の中心部までは完全に瓦礫と化したから、まさに瀬戸際だった。
家の裏側の壁には、津波が押し寄せた時に車や瓦礫がぶつかってできた穴が開いていた。廃材の山の中には複数の遺体まであったという。
着の身着のままで高台の小学校に車で避難し、家族と店の従業員ら6人と車内で夜を明かした。「避難所より車の中の方が温かい」。家業の文房具店の方はまず津波にやられ、さらに夜になって火事が迫っているのを見て、娘夫婦は瓦礫をかきわけて戻って振袖と雛人形だけ、かろうじで救った。「娘は『腕が抜けそうだ』と言いながら戻ってきた」と思い出す。その後、延焼した。
火災が燃え広がって松本さんの自宅まで類焼するかと思われたとき、偶然に風向きが変ってそこから先は助かった。50年前のチリ地震津波の時、自宅はもっと海側に建っていた。そこが津波に洗われた教訓から、現在の場所に移っていた。
「人間って、うんと怖いときは誰も声を出さないんです」。チリ地震津波について、まずそのことを鮮明に思い出す。当時はラジオの警報も自治体のスピーカーによるアナウンスもなかった。ただ不気味な沈黙のなか、通りすがりの中学生から「津波が来る」って教えられ、かろうじて避難に間に合った。
あの時はJRの線路まで津波が来た。その経験から松本さんは現在の高台に引っ越したが、多くはそのまま住み続けた。
松本さんによれば、山田町の織笠(おりかさ)地区では約200世帯あったが、わずか10世帯ほどを残して総て津波で持っていかされた。その近くの船越地区では明治の大津波の記念碑が建てられており、その教えを守って高台に家が建てられていたから助かったうちが多かったという。
この地域の津波被害といえば、明治29(1896)年に3万人近い被害者を出した三陸大津波が有名だ。その37年後の昭和8(1933)年の昭和三陸大津波、そして50年前のチリ大地震の津波——つまり、この120年間で4度目が今回だった。
チリ地震後に建設された堤防を越えてなお、明治の記念碑よりも高い地点まで到達した。数々の大津波を体験して来た町民にとってすら、未曾有の体験だった。
松本さんは「つい最近、ようやく昔の教え子の消息をあちこちで聞くようになり、あの子も亡くなった、この子もと聞くたびに、ああ聞かなきゃよかったと暗たんたる気持ちになる」と中空を見つめた。(つづく、深沢正雪記者)
写真=松本トミさん(自宅で)。取材時、松本さんの胸には移民百周年のバッチが輝いていた