ニッケイ新聞 2011年6月3日付け
「震災の後、僕への最初の安否照会はパラグアイからでした」。松本トミさんに連れられて市役所横の生涯教育センターに入ると、山田町2人目の岩手県人会賛助会員、教育委員会生涯学習課の菊地光明課長(こうめい、58)はそう語った。渡伯歴3回、南米の日系社会との深い絆を示す一言といえる。
実は沼崎喜一(ぬまさき・きいち)町長自らも賛助会員だ。弟がブラジリア近くで養鶏とコーヒー栽培を営んでいるというからまさに縁の深い地区だ。
菊地課長は、山田町の中でも最も被害を被った田の浜地区の支部長で、命からがら現場で避難活動を指揮した。同地区500世帯のうち、残っているのは山際にあったわずか170軒のみ…。50軒が火事で消失したが、それ以外はすべて「津波に持っていかれた」という壊滅的な打撃をうけた災害現場だ。
津波の直撃を受けた後、ここは交通・通信が完全に遮断され、課長が亡くなったとの噂すら流れたという状態だった。課長の指揮で避難し、生き残った約120人は順次ヘリコプターで救出された。
話を聞いてもピンときていない様子の記者を見て、菊池課長はもどかしく思ったか、「百聞は一見にしかず。さっそく現地に行きますか」と提案してきた。
車で5分ほどの田の浜地区に3人で向かった。まず港に入ると、8メートルの巨大な堤防がズラリと中ほどから海側にへし折れている。引き潮の力だ。分厚いコンクリートの塊が「豆腐のように曲がったんです」と課長はいう。堤防の門を通って市街地に入ると、瓦礫を撤去した平地が2百メートル以上奥まで続いている。
「この辺には全部家があったが、何にもなくなってしまった」と課長から聞き、唖然とする。
震災以来、初めてこの地区に足を踏み入れた後部座席の松本さんは、この光景をみて、「いやぁ、なんとまあ、なんもかんも流れてしまった。あまりに酷すぎて涙も出ないね…」と無念そうにつぶやいた。
海岸部分を三角形の底辺とすると、奥に行くほど高台になり幅が狭まる。典型的なリアス式海岸の地形だ。山際にへばりつくように残されている民家までの平地には、まともな建物は一軒も残されておらず、中ほどに防災センターの鉄骨の残骸だけがある。
「最初は演習通りにこのセンターに避難していたんですが、急きょもっと高台に避難することを決断し、間一髪で難を逃れました」。
課長が目撃した津波の光景は、あまりにも凄まじいものだった。
「ちょうどこの沖で両側から来た津波がぶつかって、もっと大きな、まっ黒い塊となってこっちに押し寄せてきたんです。恐ろしい光景でした。今でもはっきりと憶えています。まったく生きた心地がしませんでした」。車を運転する課長の声はわずかに震えた。
「1メートルの高さの波でも車がプカプカ浮くんですよ。それで車の下敷きになって亡くなった方もいた。あちこちで人を助け出したりしていたら、自宅のほうで火事が起こって、消したくても水がないからただ燃えるのを見ているしかなかった…」。
激烈な体験であるにも関わらず、課長はじつに淡々とした口調で語った。聞く側からすると、そのギャップが強い印象となって残った。
課長は山際に近いところで突然車を停め、瓦礫が撤去されたあとの何もない平地を指差して、「ここが我が家があったところです」と押し出すように言うと、記者は二の句が告げなかった。(つづく、深沢正雪記者)
写真=「ここが我が家があったところです」。津波で大半の家屋を持っていかれた田の浜地区の様子を説明する菊地課長