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「日本映画は郷愁を癒す薬」=平田さんら黄金期振返る=往時には日に6千人来場=SESC回顧展

ニッケイ新聞 2011年6月9日付け

 「戦争に負けて祖国に帰れない移民にとって、日本映画は郷愁を癒す薬のようなもの。映画館の中は知り合いが集まる日本の代わりのような場所だった」。シネニッポンの創立者、故・平田公泰(きみやす)さんの息子、公一さん(66、二世)は、そう映画館の果たしてきた役割を述懐した。SESCと国際交流基金サンパウロ文化センターの共催でサンパウロ市のSESCピニェイロス(Rua Paes Leme, 195)で開催されている、80年代までリベルダーデ区にあった日本映画館への回顧展「4つの映画館における日本」(Japao em 4 cinemas)の開幕式(3日)で関係者に往時を取材してみた。

 開幕式では、日本語ラジオ放送の元人気アナウンサーの石崎矩之さんが歴史を振り返った。
 1929年にノロエステ線バウルー駅で産声を上げた邦画興行界の老舗、日伯シネマ社(斉藤政一社長)に、翌年入社した平田公泰さんは地方巡回映写の仕事を始め、33年にサンパウロ市進出した。35年に平田さんは独立して日本キネマ興業社を起こしたが、太平洋戦争勃発で41年12月8日に上映禁止となった。
 戦後は46年7月、同興業社はいったん『流転』の上映許可を受けたものの、勝ち負け抗争の激化を受けてすぐにDOPS(政治経済警察)にフィルムを押収された。そこで日伯シネマ社と合併して日伯興業社を発足させ、47年からサンパウロ市セントロのサンフランシスコ劇場を使って戦前作品の興業を始めた。
 「お正月なんか、地方からトラックで乗り付けてきた。劇場のあるリアシュエイロ街は日本人でいっぱい。サンフランシスコ教会付属の劇場でしたから、よくフレイ・ボニファシオ神父が上映前に日本語で話してました」と公一さんは懐かしそうに語る。
 53年にガルボン・ブエノ街に常設館シネ・ニテロイ(東映)が開設され、その集客力によって戦中に解散させられた日本人街が徐々に復活していく。ジョイア(東宝系)、東京(日活)、ニッポン(松竹)が開館し、東洋街は〃シネマ黄金時代〃を迎えた。
 平田さんの娘、森田美津子さん(みつこ、76、二世)も「あの頃、テレビなんてないから、〃日本〃は映画の中にしかなかった。二世たちは映画館で日本のイメージをかため、岸恵子、裕次郎などのスターに憧れを抱いた」と説明する。
 全盛期の週末には一日で6千人が入場した。公一さんによれば、一般には若大将シリーズのような強い日本人をアピールする作品、女性には悲劇や三益愛子(みますあいこ)らに代表される母物、二世ら若者にはヤクザもの、年配者には時代劇が喜ばれたという。
 24本もの長編映画を撮影したアルフレッド・ステンヘイン(Alfredo Sternheim)監督は、「63年から4年間、エスタード紙の映画批評欄を書いていた時、毎週9本の新作映画を見たが、うち1〜2本は日本映画だった。それは批評家である以上、通うのが義務といえた。そこで五所平之助(ごしょ・へいのすけ)監督や内田吐夢(うちだ・とむ)監督の骨太な作品から洗礼を受けた」と語った。
 会場には当時の映画館の写真、ポスターなどが所狭しと展示され、来場者は懐かしそうに眺めていた。【展示会】7月17日まで(火〜金=10時半〜21時半/土・日・祝=10時半〜18時半)【映画上映会】7月26日までの毎週火曜日、当時の名作映画。