ニッケイ新聞 2011年6月18日付け
田村吾郎(岡山県、79)司会。パウリスタ新聞・日伯毎日新聞OB会会長。1960年渡伯、翌年からパウリスタ新聞記者、社会部長を経て退社。76年に週刊時報創刊、次に90年にブラジル経済報知創刊し、昨年5月から休刊中。
水野昌之(愛知県、86)。1933年渡伯、47年1月に創立したばかりのパウリスタ新聞に4月に入社。笹田事件で竹内、中林が退社したのに同調し、日伯毎日新聞創立に関わるが、1年ほどで退社した。
神田大民(秋田県、73)1964年渡伯、パウリスタ新聞で記者、社会部長を経て、日伯毎日新聞の編集長、ニッケイ新聞社会部次長。
美代賢志(大阪府、40)1994年渡伯、パウリスタ新聞記者を務めた後、独立して経済ニュース速報会社「Bサイド」(http://b-side.brasilforum.com/)を設立。
深沢正雪(静岡県、45)1992年渡伯、パウリスタ新聞記者の後、いったん帰国して群馬県大泉町でデカセギ生活を経て99年に当地に戻り、01年からニッケイ新聞記者、04年から同編集長に。
田村=先輩の話を聞きながら、創刊当時(1947年1月)前後のコロニアをふり返りたいと思います。水野さんがパウリスタ新聞社に入られたのは創刊すぐですね。
水野=僕が入った頃は創刊から4カ月目でしたね。終戦間もなくで、コロニアという組織的なものがまだ何もできていなかった。
田村=あーそうですね。
水野=今ならコロニアっていうのがあって、お門(かど)周りさえすれば材料集まるでしょ。当時は文協も商社もなく、わずかにコチア産組があるくらいで取材にいくとこがない。でね、どうやって戦後のコロニアが形成されたかということに興味があるのではないかな、それがどうして育っていったかについて。
深沢=興味ありますね。
水野=とにかく当時は勝ち負けが旺盛で、地方の小さい単位に至るまでがもめているわけですから、大きな単位ができる訳ないんですよね。そういう社会を相手にして新聞は発行していかないといけない。それに負け組の新聞は取らないっていうし、その逆もある。
田村=コロニアの団体組織というのはなかったわけですね。その頃はもう日刊だったんですか。
水野=その頃は週3回ですね。それでも社会面を埋めるのは容易でなかった。なんか当たり障りが出ちゃうんですよね。少しでも突っ込むと、みんな勝ち負け問題にぶつかっちゃうしね。しょうがないから平凡なことを書く、どんな野菜が着いたとか、出荷が多かったとか少なかったとかね。そんなことしかない。
コロニアは俳句会から再生した?!
水野=どういう所から戦後のコロニアができてきたかと言うとね。最初ね、勝ち負けでいがみ合ってるでしょ。
田村=うん。
水野=ところが戦時中、日本語が抑えられ、みんなが抑圧されていた。だから、戦後日本語が使っていいというふうになって、集会ができるようになって、最初にコロニアに芽生えてきたのは俳句会だったと思うんですよ。特に地方にね。
一同=ほ〜(感嘆)。
水野=自分を慰めるために日本語で、勝ち負けもなしに趣味で俳句をやっている人が、あっちにもこっちにもできる。抑圧されてきたんだからね。そういうのができて来て、じゃあもう少し範囲を広げようという傾向があって、その頃ね、佐藤念腹なんていうのは偉い存在だったとおもう。
田村=はい、はい。
水野=念腹氏は勝ち負けもなしにあちこち飛んでいった。つまり、啓蒙運動の先駆者だった。
神田=しかし、彼は我が党意識が強かった。それは今おっしゃったコロニア融和を進めるにはプラスしたでしょうね。ホント我が党意識っていうのは凄かった。
深沢=念腹さんは勝ち組負け組みとか関係なく句会を作るのを一生懸命やったわけですね。昭和新聞の俳壇でやってた方とか、やっぱり勝ち組俳句というのもあったんですよね。
水野=そうそう、極端な人は拒否したけどね。しかし単位が小さい程ね、融和しやすいわけよ。地方の植民地とかでは、勝ち組だから避けようというのはなくして、俳句だからいいだろうと。そういうところから戦後のコロニアが芽生えてきたと私は思っているんです。
田村=ほー。
深沢=面白い意見ですね。
神田=それは文化協会ができるちょっと前の話ですよね。
水野=ずっと前の話ですよね。
深沢=しかし、戦前から日本人会というのはあった訳ですよね。青年部、修養団もあるし、その中で臣道聯連盟、何とか愛国会というものができた。またそれとは全く別に俳句会っていうのが、全伯的に戦後でき始めていったという訳ですか。
水野=そうです。つまり戦後なんにもなくなったコロニアからね、最初に芽生えたものの一つだと思う。
深沢=でも、戦前にも俳句会があったわけですよね。戦後とくにその数が増えていった訳ですか。
水野=ええ、戦前もかなりの数があったと思うんですよ。
深沢=そっか、みんな戦前は俳句関係の偉い方はアリアンサに残っていた方が多かったわけですね。戦時中にモジに出てきてとか、戦後サンパウロ中心に俳句会を作る活動をしたんですね。
水野=戦時中作ったのでなく、戦後ですね。戦争終わるまでは、みんな昔は戦争に勝ったら日本に帰ろうと思っていた。戦後になっても勝ち組が浮き足立っていた。ところが敗戦を知り、帰国するのはダメだと、ブラジルに落ち着くしかしょうがないと思うようになった。そういう連中は抑圧された日本精神があったから、自分たちを慰めるためにも、俳句をはじめた。それが戦後コロニアの融和を促進し、形成する一番基礎的な話であったと思う。
田村=山本喜誉司以前ですね。
若者は野球に
水野=戦後のそういう時代が来て、もう日本に帰れないとなると、子供の教育志向になった。それで奥地から離れて、教育環境の良いサンパウロに押しかけた。ところが、ブラジル語ができないから、みんなほとんど洗濯屋になっていった。それ以外の人は郊外に集まって野菜作りをした。だからその頃野菜つくりは日本人だけ。比較的教育環境のいい郊外に集まった。そのうちの若い者があつまって野球が始まった。
深沢=なるほど、全体としてサンパウロ市近郊に集中化する流れの中で、年長者は俳句、若者は野球と分かれていく。
田村=俳句大会は何年ごろや。
神田=全伯という名がついてやったのは俳壇が出来てからですかね。パウリスタ新聞はいち早く俳壇選者に念腹を迎えた。
水野=そうですね。その頃は俳句が広がって、全伯大会になれば組織的ではなく、各地の代表者や個人が参加した。でも野球は最初から組織的だった。じゃあ大会やりましょうとなると集まる。それが戦後コロニアの蠢動記(しゅんどうき)の姿だったと思う。俳句会と野球がバーゼ(土台)になった。
コチアは戦争中に儲けた?
水野=もう一つは(戦争で)何も組織はなくなったけど、コチア産組など組合はあった。当時コチアだけが全伯に網を持っていた。それが経済的に戦後コロニアの生まれる土台になったのだが、その肝心のコチアの組織の中にも勝ち負けがもの凄くあった。いくら叫んでも一つにならない。でもそれがあったからこそ新聞が成り立った。それでパウリスタ新聞を創った。
深沢=戦時中、ハッカや養蚕の農家に対して勝ち組の焼き討ちがありましたよね。コチア産組の中では儲かるから、それらの生産者は増え、戦争中コチアは儲かったんですよね。敵性産業を助けているので勝ち組的思考の農家はコチアを抜け、戦争中にコチアは認識派的な組織になりつつあった。終戦の時には、勝ち負け対立の萌芽は、すでに出来ていたんでしょうね。
水野=戦後どのようにコロニアが生まれて来たかということですが、横のつながりを押し伸べていく強力な組織としてコチアが大きく貢献したと思うんですね。
深沢=ええ。
水野=ある意味で、コチア産組という背景があって、俳句会、体育会から、農業を中心とした経済面まで団結させていったと言えなくもない。
神田=農業っていうのはその必要性のために、戦時中も他の業界に比べて、比較的に無風状態だった。ほかの業界はガチャガチャしていたので、バタタをつくり、棉をつくり、大きくなっている。
深沢=戦争中にコチアの会員は増えて、組織が大きくなってるんですよ。
神田=金融もブラジル人を迎えて上手くやっていた。
深沢=『南米銀行二十年史』には、日本人の経済力は戦争中に伸びたとあります。戦争中、サルボ・コンドゥット(移動許可証)がないと動けなかったから、戦前はあちこち数年おきに転々としていたのが、戦争中は同じ場所にずっといて真面目に農業やっていたもんだからお金が溜まった。しかも皆タンス預金じゃないですか。で、それをいかに銀行に預けて頂くかを説得して回るのが我々の仕事だっていうことが書いてあった。
美代=儲かったっていうのは微妙なんじゃないですかね。
深沢=いやいや、当時は、日本に帰ろうと思ってタンス預金していたお金を、戦後の勝ち負けの時に南洋の土地売りや円売りなどの詐欺で根こそぎ盗られた人がけっこう出たらしい。当時は資産凍結が怖いからタンス預金第一で、銀行に預けるって事も考えてなかったというんだよね。
田村=そこを円売りにしてやられたって訳か。
深沢=そうです。
神田=しかし組合は安泰であったみたいですね。
深沢=戦争中に太ったんですよコチアは。特にブラジル政府とがっつりくっ付いてサンパウロ市民に食糧を供給するということでね。
田村=有難がられたんやね、ブラジル社会から。
深沢=それがあったから戦後の認識運動でブラジル官憲を動かすぐらいの力がコチアにはあった。だから勝ち組弾圧もできたんではないかという人もいますね。
田村=言えてるよ、それね。
ジュケリー組合の最初
美代=創刊時、週3日の発行で記事を探すのに苦労するって言うのは、意外でしたね。
田村=そうね。
神田=口コミのスピードが遅いんでしょうね。しかもあの頃日本人は都市集中していないし、地方に広がるのに時間は掛かるし、ビアジャンテ情報だけではね。
深沢=戦後は主な情報源っていうのは総領事とかコチアとかメルカードですか。
水野=そこまで行かない。総領事館はまだないでしょう。
深沢=そっか、戦後の総領事館設置はサンフランシスコ講和条約調印後だから、1951年暮れですもんね。
水野=コチアが指導力を発揮するために必要だと言うんで、下元氏がパウリスタ新聞を作るのを提唱した訳ですね。
田村=その頃、南伯もマウアもバンデイランテスもなかった。
水野=ほんの小さな産声を上げたばっかりですね。戦後私が新聞社に入った頃、ジュケリー産業組合(のちの南伯)に取材にいった。あの時は、メルカードの裏側にある小さな建物にあった。下がバナナ屋でね、その2階の2部屋をジュケリー産業組合として使っていた。事務員はたった2人しかいなかった。ホント生まれたばかりだった。
一同=ほー。
田村=中沢(源一郎)さんは居られたんですか。
水野=私、中沢さんとは同船なんです、偶然ね。取材に行った時、話していて『あんた水野の坊ちゃんだ』って言われて分かったんです。
深沢=ハハハ。
水野=まだジュケリー産組が生まれたばかりでしょう。唯一全伯的な活動をしていたのはコチアだったんですね。コチアの下元が認識運動を広げないといけないと思って、パウリスタ新聞が出た。しかし、新聞の販路がなく、どうやって売り込むか。それでコチアのあちこちのデポジットを通じて読者を掴めと、全伯的に新聞をばら撒いたんですよ。
田村=なるほど。サンパウロ新聞もそうですか。
水野=おそらくサンパウロ新聞の場合、そのような背景なしでやったから、最初は販売拠点は少なかったと思う。パウリスタ新聞はそれを持ってやったから最初から比較的広範囲にやった。それが今度は災いになるんだけど。
田村=というのは?
水野=パウリスタ新聞は負け組を主張してやまなかったでしょ。でも負け組にだけ販路を広げていてはダメだと、勝ち組の方もおだてて彼らの関心も買わないといけない。そこで起きたのが笹田事件だった。
笹田事件とは
深沢=ああ、マリリアの。
水野=笹田正数という医者の奥さんがアデマール・バロス州知事の奥さんの誕生日に大きな日本人形をプレゼントした。それをパ紙が取材して、勝ち負けが手を握る好機だといってトップ記事にした。すると今度はコチアでパウリスタ新聞を支えてきた各地の連中、特にマリリア周辺の実力者が、勝ち組から『ざまあみろ、お前ら俺たちが送った人形の記事をパ紙が取り上げた』と言われ、うわーっとやられた。それで、今までパ紙を支持してきたコチアのデポジットの負け組の連中の面子がなくなり、一斉にパ紙に抗議した。そして俺たちも不買運動をやると。それがパウリスタ新聞騒動の始まりなんです。
深沢=その(人形の)記事を書いたのは中林敏彦さんだったんですか。
水野=そうですよ。
深沢=その時の編集長とは、相談の上で出した記事だったんですか?
水野=その頃、パ紙に編集長らしきものはいなかったが、溝部義雄っていう名前はあった。勝ち負けテロで最初に殺されたバストスの溝部幾多さんの弟にあたります。
深沢=ほう。では溝部さんが名目上の編集長だったんですね。
水野=そうです。溝部さんは編集長としてふんぞり返っていたが、実力はなかった。それで何かあると『中林君、中林君』と呼ぶんだけど、中林さんは『チッェ、チッェ』と返事をするんだな。
深沢=ハハハ。
田村=木村(義臣)さんはその頃いなかったのかな。
水野=居たよー。居たけど昼寝ばっかりしてるんだ、一日中。唯一、社説を書いていた。
一同=ワァハハハ。
深沢=じゃあ、実質的に中林さんが記事書いて、組んでという感じですか。
水野=とにかく笹田事件では、今まで支持していた負け組の連中が、一転してパ紙を攻撃したでしょ。負け組の新聞が負け組から攻撃されたら立場がない。それが最初のパウリスタ騒動。編集の融和政策を理解しようとしないなら、我々は下元の言うままになってはおれない、もう一歩進まないと全伯的な新聞にはできないと、というのが竹内と中林の話し合いで、日伯毎日新聞創刊となった。まあ、それまでには色々ありましたけどね。コチアや下元とは関係なく、蛭田さんが新聞に意欲を持っていた。コチアが手を引こうと思っていたときに、蛭田さんには野望があった。蛭田さんは戦前の日伯新聞の営業部長だったから、三浦鑿(さく)の未亡人と仲がよかった。活字を作る鋳型を未亡人が持っていた。ちょっと圧力をかけてそれを貸さないと言われたら終わりなんです。
田村=ははは。
水野=ところが蛭田さんの奥さんとすごく仲良かったから鋳型を借りた。遠くから見れば複雑なように見えるが、中はシンプルになっている。
文協以前のコロニア創生期
水野=当時、一番日本人が集まったのは中央メルカードなんですね。
深沢=通称カンタレーラですね。
水野=奥地から出てきた連中が最初に始めたのは野菜作りで、それを売りに来ていた。そういう所に、日本人があつまる場所がないと淋しいからと言って、メルカード中心に杉田某が親睦会『日本クラブ』を作った。それが戦後サンパウロに生まれた日本人会の最初でないかと思う。それをもう少し広げて皆に入ってもらうようにして『櫻クラブ』になった。するとメルカードばかりでなく、セントロの方で仕事してた連中、羽瀬商会とか国井さんだとか実業家が集まるようになった。そういう組織が積み重なってサンパウロ400年祭になるわけです。
田村=ははー。
水野=400年祭を企画しても、勝ち組がおってどうにもならなかったでしょ。じゃあそれを乗り越えないとサンパウロ市に寄贈する日本館もできない。そのために山本さんたちが一生懸命やった。ところが山本さんや宮坂さんがやっても、勝ち組はついていかないんですよね。
深沢=そりゃ、そうでしょうね。二人とも認識派のリーダーですから。
水野=それで先兵的に各地をくどいて歩き回ったのが、鈴木欣作(きんさく)と藤井卓治なんだな。
深沢=鈴木欣作さんというのはどういう人なんですか。
神田=滋賀県人でね。
水野=そうそう。
田村=東山銀行の。
神田=外交員やっていた人。
水野=ビアジャンテもやっていて広範囲に物を知っている。それを山本さんが見つけてね。各地に、勝ち組で店を大きくやっている有力者がいる、勝ち組は勝ち組の店にしかいかない。鈴木さんはそういう連中を手なづけて400年祭を運営したわけです。
深沢=その鈴木さんはどこのお店のビアジャンテをやってたんですか? 羽瀬商会ですか?
水野=そうじゃない。ブラジル人の商会だった。
深沢=ブラジル人の、ほー。
水野=それ(400年祭)の功績が買われて、文協を作る時に拾われて、幹部になった。藤井卓治さんは事務局長に。その頃、中林さんは『お前、文協の事務局長になったそうだな。どうだ?』と尋ねたんだ。藤井は『失業救済だろう』と返す。400年祭後は仕事がこれといってなかったんです。ははは。
深沢=山本喜誉司さんは3紙から一人ずつ引き抜いたんですよね。パウリスタから本永群起さん、サ紙から藤井さんがいった。日毎からは椎野二郎さんですよね。本永さんは1953年にパ紙に入社して1年間足らずで辞め、54年に400年祭の準備に入って、そのまま文協創立に関わっていった。
田村=そこで藤井卓治を捕まえて『おい藤井!』って言ってたらしいぞ。藤井の尻尾を握ってたんだよ、確か。それで藤井さん飛んで来よったっていうんだから。
深沢=ああ、そうなんですか。
田村=年配的には藤井さんがだいぶ上ですけどね。
深沢=あと母国戦災者救援運動ですか、あのメンバーが400年協力委員会の方に流れた。
水野=戦後のコロニアがそうして始まり、400年祭、文化協会っていう風に発展していった。
円売り被害はどのくらい?
深沢=水野さんの時代、円売りの被害者の記事ってありました?
水野=いやー、なかったね。
深沢=やっぱり。(昔の新聞)をいくらひっくり返しても、実名入りの記事はほとんど出てこないんですよね。どこどこの地方で円売りの被害が出ているらしい、みたいな記事はたまに出るんですけど。
神田=日本に帰れるからって、田舎で百姓で儲けた金をそっくり盗られたという話はよく聞いたよ。
深沢=でも、あっちこっちから被害が出るという感じではないんですよね、あれどうしてなんでしょう。
水野=記事はないですね。でも、やっているという噂は広がっとったよね。
美代=その頃の記事を書くとき仮想敵は勝ち組なんですか?
水野=別にそういう意識は無かったね。一般の社会記事として扱っていた。そこまでムキになってはいなかったですね。
深沢=どっちかって言うとサ紙が勝ち組系の読者を多く入れてた?
神田=初期の頃、サ紙に読者数でリードされてたのは、パ紙が100パーセント負け組新聞だったからだよね。
水野=サ紙はどっちにもとれる曖昧なものの言い方をしてね。
神田=それが読者を引き付けたんでしょうね。
深沢=天皇帰一論ですね。営業的には成功だったわけですよね。パ新聞はイデオロギーを中心にね。
水野=サ紙の水本は円売りをやったという有名な話がありますよね。あの頃、中林さんがね『水本の奴こいつはえげつねぇな』って。でもそれを深く追求しなかったのは同業のよしみなのかな。
田村=まあ、週刊時報時代に徹底的にやらしていただきましたけど。(笑)
47年5月の円売り事件
深沢=不思議なのはパ紙が創刊して水野さんが入るか入らないかの1947年の5月、水本さんがやっていた旅行社の事務所を警察が手入れして、日本では使えなくなっている旧円札を売っていたのを摘発したとジアリオ・ダ・ノイテ紙に実名・写真付きで記事がでた。4日後にパ紙にも同じ件の記事が出たんですけど、その時にはなぜか水本さんの実名が入っていないんですよね。5月7日付けパ紙では「容疑者として某日系銀行支配人吉田俊雄をはじめ大原三郎、吉田兄弟、大川光雄(何れも特に名を秘す)らを拘引、厳重取調べを行なった。いずれ司直の手により真相は白日の下にさらされるだろう。(中略)連累者多数ある模様で、中にはいわゆる邦人間の著名人士もまじっているといわれ、どこまでこの問題が波及するかはかり知れざるものがあるといわれている」と記事にありますよ。あきらかに銀行関係者が捕まっている。
田村=そうなんだよな。
深沢=あれは囮になったのがパ紙の現役記者だった増田健次郎さん、弟の方ですよね。現役記者が囮になって事件になっているのに、肝心のパ紙は実名報道していない。どうしてなんですかね。あれが不思議なんですよ。田村=遠慮したんだろうな。
深沢=だって編集部の記者がわざわざ囮になっているんですよ。同業のよしみですか。ライバル紙を落とそうという意図は持っていたと思うんですけど。もしかして、そのへんのからくりを知らずに、若い記者だけがこっそり実行し、実は意外な身内も関係していることが後からわかって、それ以上手がだせなくなったとか考えられませんか。
田村=週刊時報とサ紙で(裁判を)やったときこちらが勝ったよな。その記事はパ紙にすぐ掲載されたからな。
深沢=あの時はもう上田編集長の時代(80年代)ですもんね。例の記事は事件の直後ですよ。そのちょっと後に円売りの真相っていう解説記事が出ているんですけど、それは明らかに銀行関係者とか詳しい事情の人に取材した形で書いてるんですけど、肝心なところがぼやけてる。実行犯の実名が出てこない。それで、これは出所が微妙だからこれ以上かけない、みんな微妙な書き方してるんですよ。あれどうしてなんでしょうね。その頃に安良田済(あらた・すむ)さんが時々編集部に遊びに行ってたんじゃないのかな。清谷さんと斉藤広志さんの時代ですかね。そのときあの事件をなぜ追及しないんだ、と安良田さんが聞いたら『後ろには認識派の人が関係しているからこれ以上追求できないんだ』と言われたとか。きっと、先ほど水野さんがいわれた、ちょっと突っ込むと〃当たり障り〃が出てくるという部分ではなかったかと。
田村=ああそうか。
円売りの被害者はどこ?
深沢=水野さんの時代にその話は編集部内で話題に出なかったですか。でも清谷さんとか斉藤さんは、水野さんの少し後ですもんね。
水野=ああ、知らないね。あの頃、水本さんは胡散臭い人間としてつまはじきにされてたんだけど、新聞っていう公器を握っているのと、三百代言(さんびゃくだいげん)やっていたからね」
深沢=三百代言ってなんですか。
水野=インチキ弁護士。
深沢=そりゃ、水本さんは一世ですし、弁護士の資格はもってないですよ、法科大学出てないですもん。確か戦前にブラジル人の弁護士事務所で働いていたんですよね。
水野=そうそう。虎の衣を借りとった。だから三百代言って。でも、これはっていう人間には丁重にするんだよね。と同時に、これはっていう人間は踏んづけるもんね。
田村=俺なんか週刊時報時代に引っぱたいてる最中でも、パーティーなんかで『いやー田村さん』って来る。衆人環視の中でそれやって見せたからね。
深沢=さすがに大物ですね。(笑)
水野=私の親戚でね戦争前に日本に遊びにいくって言ってサンパウロに来た。でももう戦争が始まるから訪日しないほうが良いって、そのころ水本が旅券の手続きやってたから、訪日やめると、『その金ワシのところに預けとかんか、利子も払うから』って。そんで金を預けたんですね。戦争後、お金返してくれと言ったらなしのつぶて。説明うけ私が水本さんの所いって、親戚であることを話した。すると、ああそうか、思い出したって言うんだ。こっちは新聞記者だからね。(笑)
一同=ははっは。
水野=そういう人だった。(笑)
美代=円売りの被害者が名乗り出ないっていうけど、日本人同士では言わないでしょう。
田村=それだ。
美代=デカセギの振り込め詐欺にしたって、いっぱいあるみたいだけどだ誰も言わないでしょ。
深沢=でも、いままで色んな所で尋ねてるんですけど、被害に会った本人に一人も会わない。結構率直にそれを言う人がいてもおかしくないと思う。100人いたら2、3人は喋るんじゃないかと思う。ぜひ直接の被害者だという人がいたら、匿名でもいいから、ぜひ編集部まで名乗りをあげてほしい。
美代=本人は被害とも思ってないとか。
深沢=なんともいえないね。円売りはあったんでしょうけど、1949年という渦中に刊行されて、勝ち負け双方に対してズバズバとモノを書いている『40年史』にすら、円売り事件は大きく扱われていない。少なくとも「大事件」との認識は当時なかった。おそらく「評論新聞」「世論(せろん)新聞」をやった沖本さん、「週刊時報」「経済報知」の田村さんらの活躍によって、後から生まれたのではないかという気がします。そして噂にいわれるほど大規模なものではなかったのかもという気もします。
田村=そうだろうか。ブラジルの新聞の円売り事件報道には、卓上に円札がいっぱい積んであった写真が掲載されてたよな? あれ見た。
深沢=ええ見ました。
神田=あれ、お札ですかね?
田村=そう、お札。あの記事が水本首魁説の根拠だろうな。
誰が首魁だったのか?
深沢=その事件自体は事実なんでしょうけど、〃首魁〃ではなかった可能性もありますよね。水本さんは自ら円売りの首魁だと全面否定しない見返りに、本当の首魁から支援を受けていたとか。本当の首魁は〃生け贄〃たる水本さんの影にかくれて追及の手を逃れる、そんな取り決めが秘密裏にあったとか。いろいろと想像が膨らみますよね。だって、できたばかりの邦字紙が単独で大量の旧円札を所有する、もしくは日本企業から集めて売りさばくことは不可能でしょう。少なくとも戦前に円を大量に所有していた銀行などが主体的に関わらないと、短期間に旧円を大量に売るシステムを作るのは物理的に不可能ですよね。でも、そのへんの筋の人は、戦後みな認識派の中心に入っている。当時から、どう考えてもそのへんが臭いと思われて続けているのが、安良田さんのエピソードには端的に出ているし、それに突っ込めない構造が負け組新聞にあったこと自体、認識派が何らかの形でそれに絡んでいた証拠ですよね。このへんの真相はいつか明らかになってほしいですよね。
田村=週刊時報を作ったのは俺がパウリスタを辞めて、南銀の橘富士雄さんの所に相談にいったんだよな。そしたら『我々の防波堤になってくれ』って、当時の新聞が色々と悪し様(あしざま)にやるもんだから。商工会議所とも関係あったからねあの人は。『書かれっぱなしで抵抗の仕様がねぇ』って。『印刷はどこでやるんだ』、パウリスタ辞めたからできない、サンパウロは嫌い、日毎にでも頼みましょうかって言うと、『自分で印刷機を持たないとだめだ』って、『沖本と組め』て言われた。沖本って評判悪いじゃないですかって言ったら、『オレは30年来付き合ってるけど裏切られた事はない、そして君と違って計数に明るい、俺が紹介したんなら悪くは扱わないだろう』と。そのころは週刊時報は登録されていたがフンショナしてなかったんだよな。娘が社長みたいな形で、それを引き継いだわけだ。
深沢=サ紙は社長が直接絡んでいるから円売りの記事は自分で扱いたくない、パ紙は書きたくても上からストップがかかる、日毎も人情で書かない…。
田村=もっとも、中林は仮名で投稿欄で悪しざまにこき下ろしたけどな。
深沢=という中で、今までこの件はあまり深追いされてこなかった。それに加えて、やたらと内実を暴露されたら困るという南米銀行をトップにした日系企業群が、「評論新聞」から「経済報知」までの系譜を裏から支え、それが邦字紙に繰り返し噛み付いてお目付け役となる。日系企業群、邦字紙、お目付け役という「3すくみ構造」もしくは均衡関係が、戦後の早い頃からコロニア言論界にはあったんですね。日系企業群は週刊時報などを裏から支えて〃第三の権力〃を作る一方で、実はサ紙にも支援して〃円売り首魁説〃を否定しないように取り決めをしていたとか、想像が膨らみますね。
あまりに興味深くて話はつきませんが、時間となりましたので、OB会のみなさん、本当にいろいろとありがとうございました。