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グァタパラ移住地=入植49周年盛大に祝う=慰霊祭、式典、収穫祭…=約1千人が笑顔で集い

ニッケイ新聞 2011年7月5日付け

 初入植から今年49周年を迎えた移住地—。グァタパラ農事文化体育協会(川上淳会長)は、「入植49周年記念式典ならびに収穫祭」を2、3の両日、同文協会館ほか会場で祝った。きつい日差しが振り注ぐ中、こいのぼりが泳ぎ、地元や近隣の非日系人を中心に約1千人が集い、共に祝った。

 この地は、1908年の笠戸丸移民が配耕された6耕地のうちの一つ。戦後再び、全国拓殖農業協同組合連合会(全拓連)が山形、茨城、長野、岡山、島根、山口、佐賀の7県から資金協力・事業参加を得て、ファゼンダ・グァタパラ耕地の一部を購入した。
 その後、海外移住地事業団に引き継がれ、直轄移住地として62年に12家族、以来66年までの間に134家族が入植(同協会編『翔洋—第二のふるさと三十五年史』より)。現在は約100家族が生活を営んでいる。
 ジョゼレイ・アパレシーダ神父により、モンブッカ墓地で午前10時から慰霊祭が行なわれた。数人の来賓が献花、地元の農協組合長など30人ほどが参列し、拓魂碑の前で先人達の冥福を祈った。
 式典では川上会長が、「グァタパラは日本移民の始まりの地。決して忘れられてはならず、発展は我々の使命」と力を込めて挨拶。また、震災義捐金として2万2千レが、同文協から茨城県人会に送られたことも報告された。
 その後、在聖総領事館の成田強領事部長、JICAブラジル事務所の芳賀克彦所長、文協の木多喜八郎会長、援協の菊地義治会長、県連の園田昭憲会長らが祝辞と、先人に苦労に対する労いの言葉を述べた。
 南米開発青年隊協会の盆子原国彦会長は、61年に測量班が入って以降、約50人の青年隊が移住地造成に尽力した歴史に触れ、「青年隊にとっては今年が50周年で隊員にとって第2の故郷でもある。次の世代に引き継がれるよう祈ります」と挨拶した。
 式典後の演芸会では、地元の小学校の児童、ジャボチカバル市など近隣のコロニア団体や個人が民謡や踊り、カラオケなど、日頃の練習の成果を披露し、祭りを盛り上げた。
 食事コーナーでは婦人部が弁当を用意し、天ぷら、焼きそばなどを振る舞ったほか、青年部、野球部なども出店、餃子や饅頭、綿飴などが販売され、地元の非日系人が多く集まり、賑わいを見せていた。
 敷地内に設けられた展示・販売会場では多くの農産品が注目を集め、中でも味噌は早々に売り切れるほどの人気を見せた。
 また、日本語学校の売店には震災義捐金を募る募金箱が置かれ、父兄らによる手作りのお菓子が並んだ。生徒達とともに店頭に立っていた文協教育委員長の清水勇さん(61)は、「少しでも被災者の助けになれば」と笑顔を見せていた。
 県連が用意したバスツアーに参加していた古谷竹男(73)、美枝子(70)夫妻は、同船者がグァタパラにいると知り、20年ぶりに同地を訪れた。「同船者に会えたので良かった。お土産も買えました」と笑顔を見せていた。

来年50周年も着々準備=ソウト市長、市で予算も

 収穫祭は08年から市が共催しているが、グァタパラ市のサミール・ソウト市長は、式典の挨拶の中で、「移住地は市よりも歴史が古く、より尊重すべき」とした上で、来年は市として予算を組むことを明言。
 さらに、「領事館や州政府、連邦政府に支援を要請する」と全面的な協力姿勢を明らかにした。
 川上会長は、「7県の知事や小泉元首相も呼びたい」と意気込む。
 また、50周年記念事業としては、文協近くの市の土地に公園の造成が予定されている。
 なお、同公園には、64年に日本政府から提供されるも上手く活用できず、使われずに保管されている稲作用の潅水ポンプやエンジンなど18トンにも及ぶ設備をモニュメントとして設置する計画もあるという。
 林副会長は、「市長は親日家。市と協力し、来年の節目は大規模に開催したい」と話していた。