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盛り上がるクリチーバ日系=50年の歩みふり返る=30年間続くニプソン=北パラナから来る人材=第3回

ニッケイ新聞 2011年7月21日付け

 元をたどれば北パラナ——。州都クリチーバには50年前、日系人はわずかしかいなかった。大集団地である北パラナの子弟が州都に大学進学し、そのまま居残る循環が戦後生まれ徐々に増えていった。
 公演後、大西健二さん(68、アサイ出身二世)は「琉球国祭り太鼓とYOSAKOIソーランが特に良かった。若い人が身体を動かしているのを見ると、こっちまで元気が出てくる」との感想をのべた。彼もまた1957年に大学進学のためにクリチーバに来てそのまま住み着いた。
 文化活動の盛んな北パラナで幼少期を過ごしたこの世代が、10〜20年ほど前から定年退職して時間ができ、文協の活動に活力を与えはじめた。さらに、日系活動に理解のあるこの世代の子供、孫世代が現在どんどん入ってきている。
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 「君は何を今、見つめているの?」という出だしで有名な『太陽のくれた季節』を披露した生長の家の同地コーラス部を45年間も指揮しているのは、笹谷宏一さん(70、二世)で北パラナのローランジャ出身だ。「コーラス部の創立が47年前、その時から歌い続けている人が4人います」と笹谷さん。
 妻の聖子さんもコーラス隊の一員であり、宏一さんの子供4人はクリチーバ育ちで、全員が音楽学校にも通ったという音楽一家だ。
 実は笹谷さんの父も北パラナでカナリア・バンドをやっていて、一度は全伯で2位になったこともあるという。「父が練習している合間に、僕らはガチャガチャ楽器を叩いて遊んでいた。ある時、こんな風にやってみたらと指導され、気がついたら自分も演奏の道に入っていた」と遊びの延長だったと強調する。
 その頃はのど自慢大会が全盛の時代であり、伴奏バンドへの需要は大きかった。父のバンドは高齢者向けの曲、宏一さんのブルースターバンドは若者向けの曲という役割分担をした。昔はアコーディオン、今はキーボードを演奏する。「朝から晩まで演奏続けるのは大変だった。一日せいぜい50曲。カラオケと違って生バンドは限界がある」と思い出す。
 大学進学でクリチーバに来て、卒業後から文協と関わるようになった。「文協でドラムやアンプを買ってもらって、のど自慢や演芸会で演奏をしているうちに、バンドに名前を付けた方がいいってことになった。三浦さんがニッポン・ソングを略してニプソンにしたらって提案して、いいねって決まった」。こうして30年前に文協にバンド「ニプソン」が創立し、現在の演奏者は3代目となっている。
 ニプソン創立者の一人、ドラマーの三浦孝さん(たかし、58、アサイ出身二世)は現役のパラナ連邦大学工学部教授だ。40年前に大学進学のためにクリチーバに住むようになった。「30年も続いているバンドは少ない」と三浦さんは胸をはる。
 宏一さんは、「カラオケがクリチーバに入ってきたのは1975年ごろ。サンパウロ市はもっと早かったはず」という。今はカラオケが全盛の時代で生バンドは民族芸能祭などの重要な時に真価を発揮する。
 このように北パラナから流れ込んだ二世世代が、クリチーバの日系活動を盛り上げてきた。(続く、深沢正雪記者)

写真=笹谷宏一さんと妻の聖子さん(民族芸能祭の楽屋で)