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勇気ある政治家人生偲ぶ=田村元下議=初七日に200人集まる=「我々二世の模範でした」

ニッケイ新聞 2011年7月22日付け

 「デプタードは常に我々二世の模範でした」。日系初の連邦下議、田村幸重氏(二世、1915—2011年)の初七日が17日午前、サンパウロ市のサントアゴスチンニョ教会で行われ、故人を偲ぶ友人や関係者ら約200人が参列し、山口エルミロ元サンパウロ州知事補佐官はそう追悼のメッセージをのべた。戦後のブラジル工業発展の基礎であり、日伯最初の国家プロジェクトだったウジミナスを成功させるなど経済振興の立役者にも関わらず、軍政時代には政府の方針に反対したとして失脚させられるなど、真面目さゆえに波乱万丈な生涯を送らざるをえなかった故人の生き様を偲んだ。

 田村元下議の一人息子アロイジオさん(63、三世)の妻エウザさんはミサで、「40年間、私のことを自分の娘のように扱ってくれた」と感謝の言葉をのべた。1910年に旅順丸で渡伯した高知県出身の両親のもとに、田村元下議は当地で生れ、子供の頃からセー広場でパステル売りをしながら生計の手伝いをするなど苦労して育った。
 また山口さんは、キリスト教徒としての故人の業績を「ギド神父の右腕として信仰に生きた人だった」と称賛した。ギド・デル・トロ神父は26年にサンパウロ市で日本移民向けの布教を始め、児童46人がサンゴンサロ教会で受洗した。その一人が田村さんや、のちに救済会を創立する渡辺マルガリーダさんだった。以来ギド神父に仕え、コロニアにカトリックの種を植えることに尽力したという。日系としては3人目、39年にUSP法学部を卒業した。
 バルガス独裁政権崩壊後、初の民主選挙が行われた48年にサンパウロ市議に当選し、最初の日系政治家としての歩みを始めた。以来サンパウロ州議(51年)、4回も連邦下議(55、59、63、67年)になり階段を登りつめた。選挙では、サンパウロ市に激増した日系洗染業者の全面的な支援を受けた。
 勝ち負け抗争を通して一般社会から悪印象を強く持たれていたのを跳ね返すように、各地の日系集団地を回って日本移民とその子孫のイメージ向上とあるべき権利のために戦った。その演説には定評があり、日系非日系問わず聞きほれるような力強いものだった。
 ジュッセリーノ・クビチェッキ大統領が「50年の進歩を5年で」とのスローガンで野心的な経済開発計画を立てたのを受け、ブラジル念願であった自動車産業や重工業に不可欠な製鉄業の拡大のため、奇跡の戦後復興を遂げていた日本から資本とその技術を導入する交渉役となった。
 追悼の挨拶に立った下本八郎元州議も、「政治家になりたいと田村下議に相談に行ったら朝3時まで真剣に議論してくれた。迷った時はいつも相談に行った。幾ら感謝しても感謝しきれない」と人柄を偲んだ。京野吉男陸軍予備役大佐は「我々の世代の模範は彼だった。あんなにキレイな政治家はいない。今はどうだ?」と問いかけた。
 アロイジオさんは「死ぬまで国家、中でも教育や医療のことを心配していた」という。サンパウロ市400年祭(54年)の時、公立学校を多数建設して政府に寄付する記念事業を提唱したが、日本館構想を打ち出した山本喜誉司さんらの方が通った経緯もあった。
 軍事政権が議会を強制閉鎖した時、はっきりと反対の意思表明をしたことから反政府的と見られ、議席を剥奪された。アロイジオさんは「あの当時、はっきりと反対を表明する政治家はほとんどいなかった。怖い時代だった。父は勇気のある政治家だった。あの時、学生として反政府闘争をしていた人たちが、いま政権の座についているでしょう」と語り、父のとった態度が正しかったことが40年後に証明されていると示唆した。