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百周年の基礎にある功績=日伯司牧協会百周年委員会=副委員長 山口エルミロ

ニッケイ新聞 2011年7月23日付け

 ブラジル社会に広く知られ、日系人の代表的存在ともいえる田村幸重氏は、1915年1月2日にサンパウロ市リベルダーデ区で誕生した。両親である田村ヨシノリ、チヨ夫妻は、1910年に高知県から移住し、農業を営んでいた。幼少時は家庭が貧しかったため、母が作ったパステルを父とともにセー広場で売っていた。
 若くして有能で日々の仕事の中で、すでに優れた創造性や闘争意欲を発揮していた。日本移民に伝道活動を行ったサンゴンサロ教会のギド・デル・トロ神父は、聡明な信者だった田村氏に宗教的職業への適性を認め、彼をリオデジャネイロのペトロポリスにある神学校で学ばせたいと考えたが、父の許可を得られなかった。
 せめて勉学を続けられるようにとセントロのコレジオ・カルモに通わせ、その成績の優秀さゆえに賞賛をあびた。そして日系3人目となるサンパウロ総合大学法学部を卒業した。
 ギド神父が日系子弟の教育の為に32年に創立したコレジオ・サンフランシスコ・シャヴィエルで、田村氏は授業も行い、同教師会の代表を務めた。
 48年にサンパウロ市会議員として政治家としての経歴のスタートを切った。51年から4年間州議員をした後、日系人初の下院連邦議員への当選を果たした。引退する71年までの16年間、4期に及ぶ任期をまっとうした。
 68年に軍政を批判する国会演説を行ったマルシオ・モレイラ・アルヴェス連邦議員に協力したとして、最後の任期中に罷免されたが、逆境にも屈せず後に復職し、71年まで職務にあたった。
 陸軍上級学校卒業生協会やブラジル地理学会の会員にも名を連ねた他、パンアメリカ観光連盟の創設を目指した観光業各国代表団および、観光業国家間連合評議会のメンバーとして活動した経歴もある。
 世界的に進んでいた日本の技術を導入し、日伯初の国家プロジェクトであり、後にブラジル製鉄業の要となったウジミナス製鉄所の設立に尽力した。 日本移民50年祭では、記念行事の一環としてブラジル連邦議員団が1959年に訪日した際には、その代表を務めた。独立チラデンテス章、日本政府から勲三等瑞宝章などを受章した。
 08年の日本移民百周年の機会には、輝かしいほどの日系コミュニティによる農業、文化、教育、産業、商業、医療、法律、体育分野などでの貢献が顕彰された。これら全てのおいて、田村幸重氏の築いた基礎があればこそであったことは、どれぐらい強調してもし足りないぐらいである。