ニッケイ新聞 2011年7月26日付け
東北の山形には「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」と歌わたれたが、この本間様は酒田市の豪農であり、財を成した本間四郎三郎という人は銭屋五兵衛らと同じ北前船で成功し農業や商業に投資したのだが、こうした人物は日本海の沿岸には多い。明治になり「裏日本」と呼ばれ、後進地域と蔑まれる傾向が強かったが、江戸の頃は大阪と蝦夷を繋ぐ弁才船で殷賑を誇ったのである▼金沢の前田百万石や江戸幕府が、米の搬送のため航路を探したのがきっかけとする話もあるが、ずっと昔から船の往来は活発だったらしい。北前船は、米や塩、衣類などを満載し3月に大阪を出航し、途中の寄港地で商売しながら5月中ごろに蝦夷が島に着く。大阪に向かう「上り」には、鰊と鰯粕や昆布を積めるだけ積み瀬戸内海を目指し荒海と闘った▼この利益は莫大なものであり、その頃の船主の豪華な家邸が今に残る。とりわけ昆布は凄まじいばかりに売れ、利幅も大きい。トロロ昆布や刻昆布などが大阪の名物なのも、北前船の功績と言っていい。沖縄に昆布はないが、本州よりも消費が多いのも、薩摩藩が琉球を通じ中国に輸出していたので県民らが珍味の魅力に降参したのに違いない▼と、こんなことを記すのも、15日付け本紙に北前船を復元した「みちのく丸」が、青森港を出航し、江戸の寄港地をめぐるとあったからだが、あの日本の伝統的な「弁才船」が、日本海の荒れ狂う波を押し切る船頭らの見事な勇姿を港に迎えた子どもたちは、拍手喝采と信じつつ。23日の魁皇は「かいおう」に訂正します。(遯)