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懐かしのぶえのすあいれす丸=父が船員、埼玉の狩野さん=史料館に写真など寄贈

ニッケイ新聞 2011年7月29日付け

 「移民の方が懐かしく思ってくださるのではと思って」。「ぶえのすあいれす丸」(大阪商船)の船員だった佐藤實郎(じつろう)さんの娘、狩野喜美子さん(かのう・きみこ、埼玉県在住)がそう思い、亡父が持っていた貴重な船上写真などをニッケイ新聞東京支社(藤崎康夫支社長)に送った。1941年3月に船上で行われた赤道祭の様子などが生き生きと映し出されており、当時を偲ぶ貴重な資料といえそうだ。これを受け、弊紙では主要な写真を掲載した上で、サンパウロ市のブラジル日本移民史料館に寄贈することに決め、栗原猛運営委員長から快諾をえた。

 佐藤實郎さんの船員手帳によれば、「ぶらのすあいれす丸」には1938(昭和13)年4月9日から数年間、事務長として勤務した。その間に撮りためた写真や絵葉書が個人のアルバムに所蔵されていた。それを見つけた娘の狩野さんが、インターネットで同船について調べている時に、たまたまニッケイ新聞のサイトを見つけ、東京支社に連絡をとったことが発端だった。
 ここに掲載した写真は、「ぶえのすあいれす丸」の1941年3月サントス着の航海の様子だが、同年の8月着の航海が戦前最後の移民船となった。7月に邦字紙が強制廃刊させられ、12月には真珠湾攻撃となり、翌1月に日本と国交断絶という流れにあり、この船の後から日本移民の戦中の〃受難〃が始まった。
 佐藤さんはその後、軍属として陸軍の船舶輸送司令部に服務し、1943(昭和18)年11月にラバウル・パラオ間で敵機の爆撃を受けて撃沈するまで乗り組んだ。
 狩野さんは「移民の方々が懐かしく思ってくださるのではないか、関係者がまだいらっしゃるのではないか、と考え、ぜひブラジルで活用していただきたい」と語り、ニッケイ新聞が仲介して史料館に寄贈することになった。
 栗原運営委員長は寄贈される写真を見ながら、「ちょうど移民船の写真展をやったばかり。すばらしい貴重な資料です」と喜んだ。