ニッケイ新聞 2011年8月3日付け
1926年、信濃・鳥取両海外協会が2536アルケールの土地を購入して創設された。
翌年4月、当時大岩村(現岩見町)村長だった橋浦昌雄氏が初代理事として赴任。5月に第一陣移民175人が到着するも、死者5人を出す列車衝突事故に見舞われた。
慣れない原始林の開拓で苦労しながらも、開拓当初から日本人会、青年会、婦人会を創設。29年に有限会社ブラジル拓殖組合が設立され、精米所、製綿工場、蚕種製造場、発電所、薬局、診察所などが建設された。
人口が増えると、青年会で行っていた柔道、相撲、陸上競技、野球などが活発になり、様々な活動や催しが行われるようになった。
31年6月にブラジル一帯で3日間の大霜があり、コーヒーが全滅。物資や医師、薬不足で風土病が蔓延し、移住地は苦難の連続だった。
32年に小学校落成。38年にカトリック教会、39年に全アリアンサ産業組合が創設された。41年には全アリアンサ野球大会を行い、15周年記念祭が賑やかに催された。
戦後は、サンパウロ近郊、パラナへ人口が流出、47年に蚕種製造場、57年に製綿工場、58年に精米所の稼動中止が相次いでいる。
46年に楽団が創立され、喉自慢や盆踊りの伴奏を行った。次第に外部へも参加、アリアンサ・バンドと名前を変え、全アリアンサ、ノロエステ、全伯大会に参加するようになった。
50年から機械化農業が進歩し始めたことから、大農場経営が発展。
67年にイタプーラの発電所の電気が入り、68年、明治百周年記念祭、移民60周年が、71年に45周年記念式典が行われた。
78年に電話導入。88年、日本移民80周年記念祭に西尾邑次鳥取県知事(当時)が訪れ、新会館落成式が行われた。 06年に入植80周年記念祭、県から100万円の寄付で会館が改修された。
現在同地に住む日系家族は33家族(会員31家族)、鳥取県系は3家族。06年に80周年記念事業として会館が改修され、活動の場となっている。日本語学校には母県から9人目となる日本語教師が派遣されており、19人の生徒が学んでいる。