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〜OBからの一筆啓上〜パウリスタ新聞の思い出=田中慎二(元パウリスタ新聞記者)

ニッケイ新聞 2011年8月10日付け

 私がパウリスタ新聞に入社したのは1960年9月。当時の編集長は木村義臣さんで、社会部のデスクが藤田普一郎さん。
 田村幸重、平田進、野村丈吾といった日系議員の活躍が紙面を飾り、その年末のタイム誌に「マベ黄金の年」という1ページの紹介記事がでるなど、画家の間部学さんが世界のマベとして飛躍した年でもあり、躍進期にあった日系社会を象徴するような明るいニュースで、強く記憶に残っています。
 当時はサンパウロ日本文化協会(現ブラジル日本文化福祉協会=文協)が発足して間がなく、すでに全伯の日系社会を結集して移民50年祭を成功させ、さらに文化センターの建設に取り組んでいた時期。
 文協は名実共に日系社会の中枢機関として、山本喜誉司会長を中心に理事には一騎当千の錚々たる顔ぶれが揃っており、戦後移住の最盛期と相まって、日系社会の各分野が、創設期の活気に満ちた時代だったようにも思われます。
 入社してすぐ命じられた仕事は、61年度の年鑑に発表されるパウリスタ文学賞入選作の挿絵を描くことと、「コロニア漫評」と題してマンガでの社会戯評を描くことでした。
 当然、コロニアの社会現象を反映して、明暗両面の社会記事は豊富で、総領事館や海協連などもいいカモでしたが、特に印象に残っているのは、グァタパラ移住地の造成問題で、侃々諤々の議論が社会面を賑わせていたことや、広岡首席領事の県人会館建設批判の「ニワトリ小屋論争」など、コロニア版・百家争鳴の趣がありました。
 漫評では、水野龍の笠戸丸航海日記を史料館より一足先に水野夫人から入手した、バストス資料館生みの親・山中三郎さんを揶揄したマンガを描いた直後にご本人と出会い、「月夜ばかりじゃないからな」とニヤリと笑って肩を叩かれたことなど、楽しい思い出です。
 もっともネタを取材してくるのは花の社会部記者。編集部の片隅で漫評を描き、中面記事の編集者には、酒席で大使や総領事とやりあったなどという大物記者の逸話などを聞かされると、いささかならずうらやましい気がしたものです。
 パウリスタ新聞を退社後、コチア産業組合の広報誌『農業と協同』編集部に移ってからも、漫評はかなりの期間描きつづけましたが、70年代の移民史料館建設にいたるまでの、戦前一世主導の時代までが、戦後移民史の一区切りでもあったようで、漫評もその辺で幕を下ろしたような気がします。 
 そして一番いい思い出は、トロンバや強盗の心配もなかった当時、新聞社近くの「初はな」やコンデ・デ・サルゼーダスの「ひさご」、サン・ジョアキン通りの坂下にあった「中根寿司」あたりで、若い連中で木村編集長を囲み、一杯やったことだったかもしれません。