ニッケイ新聞 2011年8月13日付け
〃禁獄事件〃の後に東京へ出た水野龍は当初、郷里の先輩で宮内次官になっていた大橋眞三を頼った。だが兄の訃報に接し、いったん帰郷して家事を手伝い、その後、再上京した。彼の望みを満たす何かは、中央にしかなかった。
今度は維新の元勲・後藤象二郎のコネに頼って、官僚になる道を目指した。坂本龍馬が考えた船中八策に基づいて大政奉還を徳川慶喜に提議したことで知られる、あの後藤だ。
『略伝』には「後藤象次郎(象二郎は通称)に識られ、啻(ただ)に政治に関する知識を滋養したばかりでなく、進んで身を官界に投じて立身の計を立てんとし、政治思想普及のため東西に奔走し、天稟(てんりん)の雄弁を揮(ふる)って遊説に努めた。後藤の紹介で時の岡山県知事高崎五六の知遇を得て県庁に勤め、この時徳島藩士岩佐氏の女規矩與(きくよ)と結婚した」(7頁)とある。
これは運命の出会いであった。規矩與は、本門佛立宗の乗泉寺(東京)の日歓上人の弟子・高見現達師の妹であり、この縁で水野は清雄寺(東京)の信者となるからだ。同じ土佐藩出身とはいえ、後藤の政治思想に傾倒し、その配慮で就職を斡旋してもらい、嫁まで世話してもらった特別な関係だったわけだ。
水野龍は貧書生として辛酸を舐めながら苦学し、ようやく29歳の時、1888(明治21)年に慶應義塾を卒業したと『略伝』にある。ここで生涯にわたる哲学を身につけ、「ブラジル」に関する蒙をひらいたと想像するのは容易だ。
というのも、日本で最初にブラジルのことを一般に紹介したのは、慶応義塾を創立した福沢諭吉が1869(明治2)年に出版した『世界国尽(くにづくし)』だといわれるからだ。
いわく「人の助(たすけ)を被らず、不羈独立(ふきどくりつ)の『武良尻(ぶらじり=ブラジル)』は、人口七百五十万、『亜米利加州』の南方に、比類少き一帝国、土地のひろさに較(くらぶ)れば人口いまだおおからず、深山(みやま)の草木(くさき)長(おい)茂(しげ)り禽獣人に迫れども、次第に進む世の開花、文字(もんじ)の教(おしえ)流行し、末(すえ)頼母(たのも)しき風俗を遠く慕(しとう)て居を移し集(あつま)る人ぞ夥(おびただ)し」とある。
加えて「武良尻は、(中略)南亜米利加の内にて第一の大国なり。国政寛(ゆる)くして教育の法行届(いきとど)き、日耳曼(ぜるまん、ドイツ)及び瑞西(すいちつる、スイス)より家を移して来たりし者も既に六万人あり」とも詳述する。
つまり、福沢は明治2年にブラジルを最初に紹介した段階から、移民大国であると強調した。しかも新大陸において米国の次はブラジルであると印象付け、教え子によって歴史はその通りの展開となった。福沢の人徳と先見の明だろう。
その前年の1867(慶應3)年1月21日、徳川幕府から命ぜられてオランダ留学していた榎本武揚ら9人が、同地に発注していた開陽丸を日本に運ぶ途中にリオ港に立ち寄り、11日間滞在した記録がある。
1850(嘉永3)年には有名なドイツ移民の先駆者へルマン・ブルメナウがサンタカタリーナ州にブルメナウ植民地を開設し、極めて発展した外国移民による植民地として評判を呼び始めた時期だ。この噂がリオまで届き、榎本一行を経由して、福沢諭吉、さらには水野にまで届いていたと想像することは難くない。
文明開化論でしられる福沢は、門下生に海外渡航を盛んに勧めた。水野もその影響を強く受けたに違いない。郷里の「名教館」(めいこうかん)で尊王の志士として人格の背骨を形成した水野に、自由民権や海外雄飛という広がりと方向性を与え、四民平等の思想という血肉を与えた。それらがあいまって水野の終生を左右する処世訓となっていった。(※福沢諭吉に関する資料提供はブラジル三田会の石井賢治会長。つづく、深沢正雪記者、敬称略)
写真=維新の元勲・後藤象二郎(ja.wikipedia.org/wiki/)(上)/最初の妻・規矩與(きくよ)