ニッケイ新聞 2011年8月20日付け
ブラジル移民史的にいえば、三越デパートの高橋義雄よりも武藤山治の方がはるかに近い存在だ。武藤は1928(昭和3)年に南米拓殖会社をつくり、鐘紡社長としてアマゾン移民導入を図った人物として知られている。だが実ははるか以前から慶應の同窓生である水野龍を通して、移民事業とは縁が深かった。
武藤は水野より4年も早い1884(明治17)年に早々と慶應を卒業し、85年から3年間米国に留学した。帰国後は新聞広告扱い所を起業している。そして21歳の時すでに『米国移住論』を著すなど、早くから移住を勧める論陣を張った人物だった。
つまり、水野の良き理解者であり、後に自ら移民事業を始める影にはそのような長い積み重ねがあった。水野より8歳も年下であり、歳の離れた弟分のような関係だったかもしれない。
「官界政界を断念した水野は殖産興業に転じ国民の海外発展に留意するに至ったが、福沢諭吉に負う所大であった」(『略伝』7頁)とある。2回目の投獄があった1898(明治31)年の後頃から水野龍は殖産興業に転身し、最初に手がけたのは「深川電燈株式会社と云う日本最初の株式会社」(同)の設立だ。ここで「日本最初の〜」とあるが、現在では坂本龍馬の「亀山社中」というのが定説だ。
帝都の基礎を固め国家の殖産興業を図るには、まずインフラを整えなくてはと考え、電力会社を興したわけだ。深川電燈株式会社は1905(明治38)年に東京電燈(現・東京電力)に吸収合併された。いま福島原発問題で世界を揺るがす東京電力の一部は、水野龍が売った会社だ。
☆ ☆
1885(明治18)年、ハワイ政府と日本政府の間で移民契約が結ばれ、世にいう「官約移民」が始まった。この時代、移民といっても永住目的ではなく、あくまで一時的な出稼ぎであった。
この時代背景にはデフレによって米価が暴落し、租税を納めきれずに先祖伝来の土地を強制処分される農民がたくさんいたことがある。押し出し圧力が強いにも関わらず、日露戦争以降に欧米で黄禍論が騒がれるようになり、北米やハワイ向けの日本移民入国が立て続けに禁止された。
水野龍著『海外移民事業ト私』によれば、このような情勢の中で、日本郵船が移民募集やその輸送業務の専門会社として作ったのが吉佐移民会社だ。興味深いことに、移民事業の主軸となるのは岩崎家と関係ある日本郵船会社だ。当時の移民事業は海運業の一部のような存在だったようだ。
この吉佐はニューカレドニア、オーストラリアのクィーンズランド、フィジー、西インド諸島への移民事業が手一杯で南米にまで手を広げる余裕がなく、ブラジル移民の専業とする傍系会社として佐久間貞一を社長とする東洋移民会社を設立した。
佐久間といえば一般的には、世界最大規模の総合印刷会社「大日本印刷株式会社」の創立者の一人として知られている。しかし、彼は明治初期に天草島民の北海道移住を援助したこともあり、移民事業に縁のある人物だ。
ここで「幻のブラジル移民船」が生れた。その名も土佐丸だ。北米ハワイを制限された後、遠い南米というリスクの高い市場にこだわったのは新興弱小企業、東洋移民会社であった。
明治19年に日伯修好条約が調印されたのをうけ、東洋移民会社は社員の青木忠橘(ちゅうきつ)を派遣し、ブラド・ジョルダン商会との間で正式の契約が締結され、日本政府の許可も下りた。
しかし、第1回移民船1500人を乗せた「土佐丸」が神戸港を出港する予定だった8月15日の直前になって、「財政上の恐慌に遇へる為め契約を中止した」との電報がブラジルから入り、急きょ移民は中止となってしまった。これが世に言う「土佐丸事件」だ。
もしこれが成功していたら笠戸丸ではなく、土佐丸の方が歴史に刻まれ、水野龍の代わりに青木忠橘が大功労者になっていただろう。この時点の水野は深川電灯時代であり、移民事業にすら関わっていない。彼が〃ブラジル移民の祖〃になったのは、様々な歴史的偶然の積み重ねがあった。(深沢正雪記者、敬称略、第1部完)
写真=武藤山治(ウィキペデアより)