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〜OBからの一筆啓上〜=人生変えたブラジルサッカー=沢田啓明(元パウリスタ新聞記者)

ニッケイ新聞 2011年8月24日付け

 私がニッケイ新聞の前身・パウリスタ新聞に籍を置いたのは、87年初めから88年末までの2年間。
 社会部記者として在サンパウロ日本総領事館、ブラジル日本商工会議所、文協、援協、県連などを取材し、ウンウン唸りながら記事を書いた。拙いと自覚していたが、自分が書いた文章が活字になるのは嬉しかった。
 ただし、ブラジルへやってきたのは新聞社で働きたかったからではない。
 広島の高校を卒業した後、京都の大学浪人専用の下宿というこの上なく暗い環境に身を置きながら、自らの行く末を案じていた。そんな折、消灯時間後の深夜、小うるさい下宿のババア(失礼、中年のご婦人)に隠れて70年ワールドカップ・メキシコ大会の録画放送を見ると、ペレ率いるセレソンが美しいピッチの上で躍動していた。
 当時の私の境遇からすれば、全く夢の世界。これが私のブラジル初体験だった。
 その後、86年ワールドカップ・メキシコ大会(二度目のメキシコ開催)を現地で観戦し、ブラジル対フランスという世紀の好ゲームを目撃したことでブラジルサッカーへの憧れが再燃した。そして、この年の末、思い切ってサンパウロへ移り住んだ。
 私がブラジルへ渡った理由は、思う存分、ブラジルでサッカーを見たかったから。とはいえ、何か仕事をして食べなければならない。数少ない選択肢の中から選んだのが、邦字紙記者という仕事だった。
 ブラジル日系社会に身を置いて驚いたのは、日本で出会ったことのないタイプの日本人(良く言えば規格外、悪く言えばハチャメチャ)にしばしば遭遇したこと。このような人物を鷹揚に受け入れるブラジルという国の懐の深さを感じた。
 その後、紆余曲折を経て、現在はサッカー・ジャーナリストとして日本のサッカー専門誌、新聞などに記事を送って生活している。邦字紙記者としての2年間は、間違いなく、現在の仕事のベースになっている。
 仕事柄、かつてJリーグで活躍したブラジル人選手にインタビューすることがある。彼らのほとんどが、「日本ではとても暖かく受け入れてもらった」と語り、家族共々、日本と日本人の大ファンになっている。
 これほど異なった国であり、国民性でありながら、日本とブラジル、日本人とブラジル人の相性が良いことをつくづく感じる。
 そのブラジルが、著しい経済成長を遂げつつあり、また14年ワールドカップ、16年五輪というビッグイベントを控えて世界から注目を集めている。
 我々は、そのような歴史的な節目を迎えた国で生活している。僭越だが、新聞社の記者の皆さんはその自覚を持ち、邦字紙ならではの視点でこの国の現在を切り取り、未来を語り、過去を回顧していただきたい。
 また、読者の皆さんには、暖かくも厳しい目で紙面に目を通していただければと思います。