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旧都で育むニッポン~ペトロポリス「BUNKA-SAI」~(1)=杉村公使ゆかりの土地で=日系人口わずか0・1%

14日に参加したリオ州バレンサ日系協会の皆さんと安見さん夫妻

14日に参加したリオ州バレンサ日系協会の皆さんと安見さん夫妻

【リオ州ペトロポリス市発=田中詩穂記者】「日伯交流発展のため、日本文化を市民に知ってもらいたい」—。8月6日から今週末まで、リオ州ペトロポリス市で『日本文化祭2011』が開催中されている。企画・立案したのはペトロポリス日系協会。冒頭に紹介した安見清会長(71、茨城)、道子さん(73、東京)夫妻の熱意が込もった手作りの文化祭だ。市がほぼ予算全額にあたる5万レを捻出。驚くことに人口30万人のうち日系人はわずか0・1%に過ぎない。文化・習慣の違いによる様々な苦労に頭を抱えながらも奮闘する会員の取り組み、メインプログラムの様子、参加した人々の声を4回にわたり伝える。

 ペトロポリスはリオ市の北70キロ、オールゴンス山脈を登った山間に位置し、帝政時代から避暑地として栄えた。1894〜1903年はリオ州の州都だった。
 その間、黄熱病への恐れから暑いリオを避け、各国の大使館や公使館が同地に置かれた。
 日本は1895年に修好条約を締結、97年に最初の公使館が設置され、珍田捨己が初代公使として赴任した。
 三代目公使が「移民賛成論」を説いた杉村濬公使だ。笠戸丸移民以前から日本と関わりがあったゆかりの地といえる。
 サンパウロ市を出た深夜バスに乗った記者は、14日午前6時前に到着。標高800メートルに位置するだけあって、かなり冷え込んでいた。
 ターミナルまで出迎えてくれた安見さんは73年、勤務先の三菱重工が海外進出の一環として買収したアタ燃焼機工業株式会社に出向し、以来同市に住んで40年近くになる。
 08年、移民百周年記念行事を同市でも開催したいという安見さんを含む有志らが、市に会場の提供などを依頼したことが文化祭の始まりだ。
 市は在リオ日本国総領事館の参画や、正式に非営利団体として組織することなどを条件に承諾、実施団体として同協会が設立された。
 「日本祭り」として開催されたイベントは大成功を収め、09年から「文化祭」と改称、市の公式行事となった。
 同協会は会費を徴収せず、企業や団体からの資金援助もない。
 協会が、会のイベント情報やリオの日系団体からの案内を転送するメーリングリストには約150人が登録。そのほとんどが非日系人だという。
 同市の日系人は、人口の0・1%にあたる約300人と極めて少ないにも関わらず、日本文化に興味や関わりがある人が多いという。
 「歴史的背景から知識人が多く、日本文化に関心を持つ人も多いようです」と安見さんは推測、「彼らが日頃の成果を発表する場を提供することが、文化祭開催の一つの目的」と続ける。
 午前8時半、会場に向かう。赤い半被を羽織った安見さんは、「お祭りだから賑やかに行かないとね」と気合い十分だ。
 「ペトロポリスはドイツ人、次いでイタリア人が入植した町なんです」と説明する安見さんが運転する車の外には、帝政時代の面影に加え、ヨーロッパの影響が伺える街並みが広がっていた。
 到着した会場の市営ラウル・デ・レオーニ文化センターの前には、仮設の赤い鳥居が。隣に立つ、立派なコロニアル風の市議会堂との奇妙なコントラストが目を引く。
 「6、7日はこの広場に仮設舞台と、日本食のバンカや売店を設置して、賑わいましたよ」
 向かいに立つ、同じく会場の帝国博物館に足を踏み入れると、95年に国交樹立100周年を記念して植樹された沖縄桜がよく育っていた。(つづく)