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イグアス移住地50周年=パラグアイの若い息吹=第2回=「最低10年我慢すべし」=4世代同居の第1陣家族

ニッケイ新聞 2011年9月1日付け

 イグアス移住地はスペイン語ではDistorito Yguazu(イグアス市)といい、パラグアイ国アウトパラナ県22市のうちの一つだ。ブラジル側の国境の町フォス・ド・イグアスからポンチ・デ・アミザーデを渡って、首都アスンシオンに向かう国道7号の34〜64キロ区間の両側に広がる。市街地は41キロ地点だ。
 式典の直前に取材に訪れると大豆畑の中に市街地があり、その中心には堂々たる日本人会会館と農協、その横には農協経営のスーパーが核となった中心街があった。
 日本語学校、日本語幼稚園、カトリック教会、鳥居が入り口にそびえる公園があり、その一角に市役所もある。国道から市街地への入り口に今年7月、コンチネンタル銀行が支店を開けた。経済発展する同地区を象徴する出来事だ。
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 イグアス市初代市長を努めた石橋学さん(二世、77)は、ラ・コルメナ生まれの最初の二世世代だ。この層がパ国における二世活躍、一般社会への進出の先鞭をつけた世代であり、パ国日本人移住70周年(06年)で秋篠宮殿下が来られた時の金沢ホセ・ケイ三軍総司令官(当時、59歳)もラ・コルメナ生まれの最初の二世世代だ。
 石橋さんの父はパ国第1回移民であり、1935年にマニラ丸で渡り、ラ・コルメナに入植した。第2次大戦の時、「日本人差別はなく、日本語をしゃべっても問題なかった。でも戦争中に日本語学校は閉鎖された」と思い出す。父はラジオで大本営発表を一生懸命聞いていたという。
 「戦後移民が来るたびに、ブエノスアイレスまで出迎えに行きました」。石橋さんは1954年、フェデリコ・チャベス大統領時代に戦後移住協定が結ばれ時代からのJICA現地職員の草分けだ。55年にチャべス移住地を建設した時から、その生涯を移住事業に捧げてきた。
 「移住は最低10年がんばらないといけない。その前に脱耕した人は、土地に投資だけして儲けが出る前に手放したことになる。その分、残った人は成功している。どこの移住地でも10年は我慢しないとものにならない。残った人は良くなった」と繰り返す。ピラボ、イグアスにも関わり、最後にはここに住み着いて、そのまま定年を迎えた。
 1965年にパンアメリカン機で初めて訪日した。父の郷里で熱烈な歓迎を受け、「みんなから『日本でどう感じたか?』と聞かれ、『ここは日本人ばかりですね』と答えたら、みんなが笑っていた」と懐かしそうに語る。76年に市制がしかれた時、初代市長に任命された。
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 坂本邦雄さんや石橋さんらの準備作業をへて、61年8月、イグアス移住地への第1陣14家族が入植した。その一員、笹本信行さん(のぶゆき、87、熊本)は、「トラックの上に乗って夕方に到着しました」と中空を見つめた。移住地を通る国道7号は「国際道路」とは名ばかりで赤土のまま。昼なお暗い原始林に覆われていたそうだ。
 笹本さんは1955年にエンカルナシオンに初入植し、そこでの経験を踏まえて、後に日本から直接来る後続につなぐための移住地の基礎作りを担った。「50年前は大森林に道が一本あるだけ。現在の繁栄を思うと本当に夢みたいだ」としみじみ語った。
 長男でイグアス入植時14歳だった笹本照美さん(64、熊本)は、「第1陣14家族のうち、入植当時から家族が一人も欠けていないのはうちだけ。4世代が同居しています」と笑顔を浮かべた。
 信行さんを先頭に照美さんら子供が3人、孫3人、ひ孫5人がいる。開拓第1陣である笹本家が末広がりに大家族となった様子は、同移住地の発展をそのまま象徴しているようだ。(つづく、深沢正雪記者)

写真=ラ・コルメナの最初の二世世代、石橋学さん(上)/第1陣14家族の一つ、笹本家のみなさん(左端が笹本信行さん)