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イグアス移住地50周年=パラグアイの若い息吹=第3回=「南米に理想郷作る」=弓場農場のパ国版構想も

ニッケイ新聞 2011年9月2日付け

 弓場勇の影響を受けてパラグアイに理想郷を作ろうと、家族を挙げて移住した伊藤勇雄(いさお)さんを家長とする一族11人もここイグアス移住地に入った。
 その様子はNHKドキュメンタリー『乗船名簿AR—29』から10年ごと放送された『移住10年目の乗船名簿』『移住20年目の乗船名簿』『移住31年目の乗船名簿』でも扱われ、日本ではその生涯を紹介する本も出版された。
 勇雄は岩手県南部の川崎村出身で若い頃、文学を志して詩集を出版し、武者小路実篤に共鳴していた。「東京で通信士として勤めながら塾に通い、英語やエスペラント語を学んだりしました。内村鑑三の運動に参加したり、文学者武者小路実篤に共鳴し九州の『新しき村』作りに参加したことが思想的にも精神的にも大きな影響を受けたようです」(www.geocities.co.jp/CollegeLife/3860/biografias/itoisao.html)。
 村議、県議、県教育委員長を歴任するなどの名士だった。54歳の時、住み慣れた土地を出て家族を引き連れ、県内で最も寒さが厳しい県北の玉山村の開拓に入った。
 「宮沢賢治もよく訪れたこの北上山系の高原地外山は星空がすばらしく、空気が澄んでおり夢見ることのできる人間には絶好の地でしたが、 そこに暮すものにとっては厳しい自然との戦いの地でした」(前同)とある。
 この開拓地で組合を作り、電気を引き、診療所の設置などしてようやく生活基盤が整った頃、さらなる理想郷実現を求めて南米を視察し、弓場勇に出会い、移住を決意する。妻のエソさんは移住に反対していたが、夫に押し切られる形で承諾した。勇雄さんは「パラグアイの原生林に理想郷を築きたい。新しい文化を作りたい」(『20年目』)。そう画面の中で、熱く語っている。
 生涯2度目の開拓を手がけるべく岩手の近隣住民を説得して回ったが共鳴者は現われず、勇雄さんは69歳の時に一族を引き連れて68年3月に横浜を出港した「あるぜんちな丸」で渡航した。
 当時、24歳だった息子の伊藤鷹雄さん(たかお、68)は、「最初は戸惑いましたよ。いきなりパラグアイに行くって言われて。新婚の嫁さんからは反対されるし」と当時を振り返る。
 「家を買って基盤を固めていた兄達と違って、新婚ホヤホヤだった僕が、父に言われてみんなより1年早く先発隊として送り込まれました。言葉も分からないし、電気もないランプ生活ですから、最初は困りました。でも、森に鉄砲持って入って動物をとったり、魚を釣ったりして生活しているうちにだんだん楽しくなり、『まんざら悪くないかも』と思うようになりました」という。
 働きながら学び自給自足できる村建設を目指して移住後、7年目の75年1月、勇雄さんは弓場農場で急逝した。『20年目』の中でエソさんは、「最後までとうちゃんはご自分の思うとおりになすった。私は世界一幸せな男の妻として、最後まで幸せに過ごせるでしょうといったら、顔いっぱいに笑顔を浮かべた」と臨終の間際の様子を語っている。
 父の壮大な理想を継いで、一族は敷地内に地域住民が通う小学校学校「人類文化学園」を開いた。『20年目』(88年)にはその開校式の様子が描かれている。
 それから23年、その学校はまだ続いているという。鷹雄さんは「父の理想は共存共栄、今でも地元パラグアイ人の子供20人が通っています。父は大学までの学園村をここに作るのが夢でしたが…」と言葉少なげだ。
 地域社会との共存共栄——当時はまだ早すぎた理想だったかもしれないが、移住地の将来にとっては年々重みを増している考え方でもある。
 50周年式典で祭典委員長を務めた福井一朗日本人会会長(47)は、勇雄さんの孫で移住当時まだ3歳、鷹雄さんの甥にあたる。一族から移住地を先導する若きリーダーが生まれた。鷹雄さんは晴れの場であいさつをする福井会長を見ながら、「父の志を継いで頑張ってくれている」と頬をゆるめた。(つづく、深沢正雪記者)

写真=伊藤鷹雄さん