ニッケイ新聞 2011年9月3日付け
「ばあちゃんが『温(ぬく)いところに行きたい』って、パラグアイ行きを決めたんです」。北海道網走出身の小矢沢和一さん(こやざわ・かずいち、77)はいう。1957年12月に「ぶらじる丸」で渡航し、サンタロッサ移住地に28年間暮らした。そこでは最後まで電気のない生活で、石や湿地ばかりの土地に見切りをつけ、86年にイグアス移住地へ転住した。
和一さんは4歳で母を、11歳で父を亡くし、祖母に育てられた。移住直前、2年続きで凶作に痛めつけられ、農協に借金を作った。土地30町歩といえば日本ではけっして狭くないが、最北の極寒地で、なおかつ半分は大変な傾斜地だった。
「こんなところにおっては分家もできん。お前達どうするか」。そういって祖母は和一さんら兄弟4人を急きたてた。祖母はその時すでに72歳だったが、先頭にたって一家を引っ張ってきた。
「日本で海協連は、移住地には道も病院も学校もあって、山にはバナナ、ミカンが取りきれないほどなっているって説明したけど、来てみたら何もなかった。あったのはアペプ(現地種ミカンでとても酸っぱい)だけ」と笑う。
妻のテルさん(68、宮城)は、「まあ怒ったってどうしょうもない。ばあちゃんはパラグアイには冬がない、二毛作ができるって喜んでいた。マイナス25度になる網走に比べれば、ここは確かに温いですから」という。和一さんらを連れてきた祖母は、移住2年後に胃ガンで亡くなった。
イグアス移住地には最初155ヘクタールの土地を買ったが、今では470まで増やし、主に大豆を植えている。それに加えて牧場も経営し、牛も200頭飼育する。
移住以来初めて、81年に郷里の土を踏んだ。かつての土地を改めて見直してみて、「よくあんなすごい傾斜地の、しかも狭いところにおったなと自分でも驚いた」。その傾斜地は今では植林されて林になっているという。小矢沢さんの眼にもう一つとまったものがあった。昔自分たちが植えた松が全然育ってなかった。「まあパラグアイに植えたのの半分の成長ですね」。何かに区切りをつけるように、あっさりと言い放った。
昔ながらの質素な木造家屋の自宅から外に出ると、その周囲には冬場の裏作として植えられた見渡す限りの小麦畑が、輝かんばかりに青々と広がっていた。
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小矢沢さん同様、現在パラグアイの日系移住地の基幹作物は大豆が中心になった。同移住地の総生産量は5万トンにものぼり、大きな農家なら一軒で3500トンも生産しているという。
「大豆栽培は雑草との戦いだ」。松永真一さん(まつなが・しんいち、64、山口)は、そう強調する。親に連れられて9歳でラパスに移住した。
最初は海協連が奨励していたキリの実を30ヘクタールほど植えた。実がなるまで5年ほど我慢したが、それから作った油は売れなかった。「現金収入がなく、間作のトウモロコシも育たない。父はアルゼンチンに転住の視察に行って、メンドンサに決めてきた」。でも母が入退院を繰り返す状態だったこともあり、結局は兄が先に入植して縁のあったイグアスにやってきた。
最初は野菜を作って売った。「当時エステには家は3軒だけ。ブラジル側のフォスの町まで乗り合いバスに乗って野菜カゴもって売りに行った。一軒一軒、ドアを叩いて回った。すごく恥ずかしかった」と昨日のことのように思い出す。
66年に1トントラックを月賦で購入し、移住地から野菜を集めて売りに歩くようにした。「週に4日売りに行く。3日は畑で野菜を作る。休みなんか全然ない」。
親から独立して営農するようになり、オイルショックの時に値段が上がったのをきっかけに大豆栽培を始めた。
当時のJICAの狙いはまだ牧畜だった。蔬菜(トマト、キャベツ)はもちろん、養蜂、養鶏、養蚕などあらゆるものが試されたが、大規模生産者に負けるという繰り返しだった。「土地はあるが、牧畜では食べられない。いろいろ試して大豆でようやく食べられそうになった」。ようやく曙光が射した。(つづく、深沢正雪記者)
写真=小矢沢和一さんと妻テルさん