ニッケイ新聞 2011年9月6日付け
元気の良い移住地の歴史を見ると共通点がある。〃中興の祖〃が生まれることだ。例えばアマゾンのトメアスー移住地では、組合が破局直前の難局にぶつかる度に若者が立ち上がって打開し、現在の森林農法を生み出した。
いうまでもなく移住地にとって農業は生命線だ。いくら肥沃なテーラ・ロッシャでも、基幹作物に恵まれなければ経済が安定せず、櫛の歯が抜けるようにだんだん人が減り、淋しくなる。
パラグアイの日系移住地で大豆が基幹作物として安定したのは、まだほんの10数年ほど。それ以前はやはり試行錯誤の連続だった。
イグアスにも〃中興の祖〃といわれる人物がいる。その一人は不耕起栽培の第一人者、元組合長の深見明伸さん(ふかみ・あきのぶ、70、高知)、もう一人は前述の松永真一さん(まつなが・しんいち、64、山口)で、組合長こそしていないが自分の畑を使って農薬会社に試験をさせ、ここの土地に適応した除草剤の使い方を工夫した人物だ。
松永さんが若い頃にブラジル側のフォス・ド・イグアスの町で野菜を売り歩いていたように、深見さんはブラジルからきた農業技師に不耕起栽培を教えてもらった。当地とも縁が深いことも二人の共通点のようだ。
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大豆を始めてもサイロ(収穫倉庫)がないと、値段のいい時に売れない。イグアス農業組合は3千トンのサイロを作ったが、700トンぐらいしか集まらず赤字続きだった。そこで深見さんや松永さんら8人が自分の地権を担保にして個人融資の形でサイロの再建を図った。
収量が増えればサイロの採算が合うようになる。松永さんは除草剤の使い方に着目した。「農薬会社を自分の畑に呼んで、試験に試験を重ねた。その成果を、毎朝農協に集まって情報交換するときに伝えたんです」。
雑草との戦いに負けるわけには行かない。「以前の大豆生産はヘクタール当り1・5トンとかの収量で、ほとんど儲けなしという状態だった。それが除草剤の工夫によって3トンも可能となり、採算が合うようになった。そして深見さんが不耕起栽培を成功させ、広まった。僕もその2年後から不耕起を始めた」という。北海道ですら平均収量は2・2トンだというので、いかに高収量かがわかる。
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深見さんは57年に来パし、45年前にイグアスに転住、以来一筋に営農を続ける。15年前に組合長を引き受けた時、組合では牧畜(牛)が中心だと考えられていたが、採算が良くなかったため、深見さんは大豆に焦点を定めた。牧畜からの転換を図るためにJICAから無償貸与をうけたブルドーザーを使って、どんどん抜根を進めた。
その結果、大豆の作付面積は飛躍的に増えたが、同時にコンバインで土地を耕す手間、除草する作業も急激に増えたが、使える人間の数は限られている。人力の限界という壁にぶち当たった。
耕すことで表土の流出が早まることも深刻な問題として浮かび上がってきた。「1982年の集中豪雨で畑という畑の表土が大量に流され、こういう営農を続けていたら、将来すぐに畑がダメになると皆が頭を抱えた」という。
大豆を基幹作物にしようと考えても連作できないと不可能だ。一体どうしたらいいのか。
そこでブラジルから畑作の専門家を呼んだところ、不耕起栽培という作付け方法があると聞き、深見さんはそれに賭けた。自分の畑を実験台にしてまっさきに試した。
その専門家は事前に警告した。「雑草処理が難しい」「土地が固くなる」などの問題があるために「最初の3年ほどは減収する」と。事実、ブラジルでこの農法はそれほど広まらなかった。(つづく、深沢正雪記者)
写真=深見明伸さん(上)/松永真一さん(中)
同船者と45年ぶりの再会
一行の松村滋樹さん(鹿児島、69)=サンパウロ市=、三木路生さん(みき・みちお、71、香川)=アチバイア市=は1966年のさくら丸の同船者、堀川昭利(あきとし、70、秋田)との45年ぶりの再会をイグアス50周年式典会場で果たした。
堀川さんは「三木さんの顔みてすぐ分かりました。まさか会えるとは思っていませんでした。全然変ってない。同じ部屋のベットの上段下段だったから、よく憶えてますよ」と懐かしそうに笑う。
三木さんは「僕も堀川さんもあの頃、新婚だった。新婚旅行でそのまま移住、みたいな感じだった」と振りかえる。松村さんも「会いたいと思っていたんですよ」という。