ニッケイ新聞 2011年9月14日付け
若者は将来の夢や希望に胸を膨らませ、老人は過去の自分に思いを馳せて生きるもののようだが、自分も寄る年波には抗し切れず老境に入ったのもあって、過去の思いに耽ることが多い。
それは確か53年も前の話になるが、サンパウロで豊かな生活を謳歌していった大阪西高の級友N君の近親Y氏が訪日し、大法螺吹いたのがコトの発端となって対伯移住の話が持ち上がったのだ。
日本は所得倍増論で始まった高度経済成長期に入る前で、敗戦による暗い影を引きずっていたのもあって、「海外雄飛気取り」で両親に相談もせず決めてしまったのだ。
卒業直後、移住手続きに入ったものの肺機能の欠陥を指摘され移住不可の通知を受けたのだが、受験勉強など進学準備もなかった自分は一旦就職したものの不本意な身の置き場にいたたまれず、犯罪かそれに近い行為とは知り乍ら、診断書にあった「要精検」等肺の欠陥を記述した数文字をカミソリで削り落した書類を提出した結果、なんと移住が認められ、西回りのオランダ航でサントスに上陸したのが1960年10月10日のことだった。
ニッケイ新聞のすぐ前のア・ジュニオールにあったペンソンで下宿生活を始めたのだが、身の振りの方に何一つ予定もなかった自分は、そこで知り合ったコロニア作家の紹介で日毎紙の社会部に籍を置く生活を始めたのだが、日系社会にドップリ身を浸す自分が「海外雄飛の意図は?目的は?」と問い詰められると答えようもないザマでしかなかった。
とは言え充実感に満たされやり甲斐を満喫できた四年前後の記者生活は有意義なものだった。記者生活で得た人間関係から住む社会が広く見通しのきくものになったのが大きい。
邦字紙は移住がストップして久しい今、購読者の減少からその存続に黄信号が見え隠れしているらしいが、日系社会のまとめ役として機関紙的な重大使命を持つ邦字紙は確固たる経営基盤の確立を急がねばならない時期に直面していると考える。
三、四世のブラジル人社会への同化は是としても、「ジャポネース・ガランチード」の言葉に象徴される彼らのアイデンティティーが見失われることがあってはならないのだ。その手助けをし、白人社会との更なる融和、協調を促進する活動に道筋をつけなければならない。
この活動に地道乍ら崇高な使命を担う邦字紙の存在は、この上なく重要且つ不可欠なものと考える。この持続が保持されてこそ更に望ましい日伯関係の構築が促進されていくものと思う。
若い頃の一時期ではあったが邦字紙の編集に関わった自分は身びいきも手伝ってか、邦字紙の安定的な経営、発行の持続を強く願望する者の一人であり、関係者の暖かい御協力、御支援を…と切望している。
その使命の重要性から日伯の有識者や有力政治家にアピールし、その御協力を得てより安定的で機能的な邦字紙の存続が確認できる日の到来を待つばかりだ。