ニッケイ新聞 2011年9月29日付け
「あの時代の日本人は、皆GVを目指していた」——。今年で創立100周年を迎えたサンパウロ市イピランガ区のジェトゥリオ・ヴァルガス州立職業学校(Escola Tecnica ‘Estadual Getulio Vargas’、以下GV)の記念同窓会が24日、モオカ区のシュラスカリアで盛大に開かれ、卒業生、元教員など約360人が数十年ぶりの再会を喜び合い、母校の創立100周年をともに祝った。戦後、在籍生徒約6割を日系人が占めたことから、「戦後の日本人にとって非常に重要な存在だった」と話す主催者のマリオ・イズミ・サイトウ氏。この日姿を見せた数人の卒業生らに、当時の様子を聞いてみた。
同校を62年に卒業したサイトウ氏(65、二世)が中心になって編纂された、卒業生名簿、学校の歴史や写真などを盛り込んだ記念書籍が昨年発行された。
同書によれば、同校は1911年9月、ブラス地区に「男子職業学校(Escola Profissional Masculina)」として設立され、63年に閉鎖。その後は、現在イピランガ区にあるGVと他2校に分かれた。
同校には中学校にあたる4年制の「工業普通科」と、高校にあたる3年制の「高等科」があった。設立当初から移民を多く受け入れ、イタリア系、日系をはじめ、リトアニア、ドイツ、ポルトガル系移民も在籍した。
サイトウ氏は、「GVの卒業生には政治家や企業家、画家など有名人が多い」とした上で、「戦争が始まって祖国に帰れなくなり、故郷に錦を飾るという夢が打ち砕かれた日本移民にとって、GVは非常に重要な学校だった」と位置付ける。 『ブラジル日本移民80年史』によれば、戦後、帰国から永住へと意識を転換した移民には、サンパウロ州内陸の各地からより良い営農を目指しパラナ州西部の新開地への移動、もう一つは、教育機関が整備されていなかった奥地ではままならなかった子弟の教育も目的とし、当時拡大しつつあったサンパウロ市、隣接する近郊都市部への移動という大きな2つの流れがみられたという。
また、「欧州からの移民の歴史に比べ日が浅かった日系移民子弟を、ブラジル社会の中で社会的経済的上昇を図るには高学歴を与えることが最短距離だった」とある。
そんな中、「手に職をつける」ために充実した職業教育を施し、授業料が無料であるだけでなく寄宿舎や食堂なども整え、生活手段も無料で提供していたGVは、戦後日系コロニアの〃光明〃だったといえる。
日系の卒業生は画家の富岡清治氏(26年卒)、半田知雄氏(29年卒)をはじめ、田中フラビオ・シロー氏など数多い。
40年代から徐々に増え始め、50年代からイピランガ区に移転した63年までの間、約60%を日系人が占めている。
24日は、ブラス地区で学び63年までに卒業した人を中心に、40〜80年代に卒業した同窓生が一堂に会した。
午前9時半頃から夕刻まで終日賑わい、会場のあちこちで思い出話に花を咲かせた。(つづく、田中詩穂記者)
写真=モオカ区ピラチニンガ街にあった59年当時の学校(記念書籍から)/同窓会に訪れていた皆さん