ニッケイ新聞 2011年10月6日付け
世界中の美味を知り尽くした老人が料理を見ただけで食材や調理法を言い当て、決して食べようとしない。食通らがあの手この手で挑戦するも、該博な知識と経験の前になす術もない。その老人があまりの馥郁に思わず口をつけてしまうのが佛跳牆というスープ▼「その芳しさに修行中の僧侶も寺の塀を乗り越える」というのが語源なのだから、どれほどの禁断の味なのか。子供の頃、その存在を知って以来「いつの日か…」と幾度も遠い目をしてきた。その三文字をリベルダーデの中華料理店のメニューで発見、思わず声を上げた。夢に出てくる麗人が町内に—といった感じだ▼値段も大人数で食べるなら高くない。漢方などを含んだ高級食材数十種を長時間、壺で蒸煮にするため予約が必要。そわそわとした日を過ごし、先日「ようやく…」とレンゲから沸き立つ湯気に鼻腔を近づけた▼味覚の文章化をテーマに掲げた小説家・開高健は、甘、酸、鹹、苦、辛のほかに淡、清、厚、深、爽、滑、香、脆、肥、濃、軟、嫩と形容語を並べ立てた。そのひそみに倣うなら「枯」を当てたい。幽霊の正体見たり枯尾花—。これで塀を越えるようならよっぽど修業嫌いの生臭坊主だ▼とはいえリベルダーデで寿司は語れまい。台湾出身の王瑞霖さんに尋ねた。「高いものでも特別料理でもない。決して美味しいものではありませんね」とバッサリ。旅行も恋愛も達成までが楽しいもの。後悔しきりのコラム子に「フカヒレ入りでしたか」と王さん。それっぽいのはあったがあれは筋の多い白菜だった。これからは〃本物〃との出会いに恋焦がれることで満足しよう。(剛)