ニッケイ新聞 2011年10月7日付け
1959年9月28日着の日本移民船『あめりか丸』の同船者会が24日、リベルダーデ区のレストランで開かれ、同船者や家族など21人が参加し、思い出話に花を咲かせた。760人が乗船していた同船は、来伯した翌年から26年間同船者会を開いており、半世紀を祝った09年から3年連続の開催。「来年はみんなでサントス港へ」と次回開催も決まった。
亡くなった同船者へ黙祷が捧げられた後、「今回で31回目。再会できて嬉しく思います」との幹事役の千葉直義(72、岩手)の挨拶に「正直、やりすぎだよ」との野次が飛び、会場が沸いたまま乾杯となった。
「ベレン湾で船が座礁してね。船長さんが『皆さん右に寄って下さい』って言われて」と話すのは、力行会で来伯した山内啓三さん(71、東京)=クリチーバ在住=。船内学校の先生を務め、パラナ州アストルガ市でも4年間日語学校の教壇に立った。「市議になった教え子もいたな」と感慨深げ。
寄港したロスで荷物を運ぶアメリカ人の腕の太さを見て、「ブラジルでやっていけるだろうか」と心配になったと千葉さん。山内さんと同じく力行会で来伯、66年からピニェイロスで古家具商を始めた。「当時はコチア産業組合の人が多くてね。儲けさせてもらいました」と冗談めかす。
「寄港したベレンでもストライキに当たってね。順調とはいえない航海だったわね」と川合洋子さん(66、東京)=サンパウロ市在住=。母の川合美代子さん(92)、姉やす子さん(70)と参加した。
父の義雄さんは一年前に単身渡航し石油会社で勤務。弟二人と家族5人が呼び寄せで自費渡航した。「もう日本の勉強はしなくていいと知って嬉しかった。ポ語ができない心配もなかったわ」。
金子国栄さん(70、新潟)=レジストロ在住=は当時、新潟加茂農林高校を卒業したばかりで18歳。「停泊中は若者には退屈で友人と海に泳ぎに出た。泳ぎ疲れて梯子を登ると、上で移民監督が睨んでる。『パスポートが無ければ乗船させない』だってさ。あの時は絞られたな」。
「赤道祭ではどじょうすくいで優勝したんです」と思い出すのは、ピエダーデ在住の小村広江さん(85、鳥取)、美恵子さん(62)親子。10歳だった美恵子さんは、「ブラジルの距離を知らなくて、旅行気分で楽しみでした」と船内でもうきうきだったとか。 「ブラジルの学校では幼い子に並んで勉強。ポ語は全然ダメで、出された宿題の範囲すら分からない。恥ずかしかったわね」と笑う。
「寝室は蚕棚だったけど、食って飲んで極楽だった」と及川君雄さん(74、岩手)。小中高校と幼馴染だった恵子さん(73、同)とブラジル行きを決めた後に結婚。「皇太子様のご成婚パレードを横目にブラジルでの生活を想像する。そんな時代でした」。
現在もアチバイアで花卉栽培を営む。11人の子供がおり、「週末には誰かが遊びにきます」と嬉しそう。
佳境に入ると、すでに来年の話に。千葉さんが、「食べて話して終わる会は充分やった。降り立ったサントス港を訪れたい」と提案。「土曜日に日帰りで」「サンパウロ市内からオニブスを貸切っていこう」と意見が続出。来年の開催も決まり、帰り際には及川さんが育てたばらの花が参加者に配られた。