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世界市民的な移民女性=平田美津子という生き方=最終回=百周年で顕彰されたルイス=平田家に流れる信念の血

ニッケイ新聞 2011年10月22日付け

 08年6月22日、パラナ州ローランジャ市の日本移民百周式典で、ロベルト・レキオン州知事が熱のこもった演説の最後の最後で、なんども名前を挙げて感謝した日系人がいる。
 「彼は勇気ある、意義深い、英雄的な日本移民子孫であり、国の近代史において根本的な役割を演じた。軍事政権へのレジスタンス(抵抗運動)に参加したのだ。その名は平田ルイス。敵を恐れることなく勇敢に、ただ一筋に、あるべき、親愛なる、連帯の、発展したブラジルのために闘ってその命を国民のために捧げた。まだ瑞々しい24歳で、弾圧にあって道半ばで斃れ亡くなった」
 日系人一般の功績をふり返る全体的な論調の中で、そこだけ個人名を出した異例な演説だった。エレナは母の尽力でパリへ逃れたが、平田家には実際に軍事政権によっていったんは〃事故死〃として処理されたが、後に拷問で殺害されたことが判明した人物がいる。
 ルイスは、平田進の兄・直義(ただよし)の子としてサンパウロ州カイサーラで1944年に生まれた。USPのピラシカーバ農大で学んでいたが、カトリック大学の学園闘争に関わったのがきっかけで、のちアッソン・ポプラール(人民戦線=AP)に参加し、DOPSに追われる身となり、1971年12月20日に拷問を受けて死亡したとされている。江戸幕府250年を潜伏した隠れキシリタンの末裔らしく、時の政権に反発しながら信念を貫く血が流れている。
 この出版会のためにわざわざパリからやってきたエレナを見ながら、美津子は「この子は本当に夫にそっくりなんです。このままブラジルに置いておいたら絶対に政治家になる。平田家に政治家は一人で十分って。だから、パリに行ったときは本当にホッとしましたよ」と笑う。
 平田は74年、自動車事故で60歳の若さでなくなった。後は大統領か、大臣かと嘱望されていたにも関わらず、実にあっけない最後だった。そしてヘレナ(65)はパリで、確かに父より長生きしている。
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 後日改めて取材したところ、美津子は監獄にいる娘を解放すべくサンパウロ州知事に直談判した件に関して驚くべき真相を明かした。「本当は違うんです。実は私は何もお願いしていません。あれはアブレウと進だけで進めた話なんです」と流布されている話を否定した。
 どうやら、真相は選挙民に配慮した平田の創作のようだ。自分で娘を解放する手配をしたと世間に知られれば、政治家が影響力の濫用をしたと批判の対象になる可能性があり、平田に投票した保守派選挙民を裏切ることになる。そこで「娘を想うあまりに妻が勝手にやった美談」に仕立て上げて広めた可能性がある。
 ただし、パリに逃がす手立ては実際に美津子がやったようだ。
 エレナは自分が捕まった時、父がソドレ知事に「娘は成人している。自分で責任を負うべきだ」と裏で出獄させることを断ったとの話を信じている。エレナは「父は自分に投票してくれた人に申し訳ないからって、一度もパリに会いに来ないまま死んでしまった」と残念そうに語った。
 政治家という職業はとんでもなく複雑な人間関係を配慮する必要がある。家族にすら本当のことが言えない、そんな状況もあったのだろう。その中でも、できる限りのことはしていたに違いない。
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 出版記念会で平野セイジUSP元副学長は「美津子は貴族と結婚してもいい家系に育ったが、移民の息子を選んだ。常に自由な道を愛し、それを子供に教えてきた。その世界市民的な価値観はまさに子供の活躍に象徴されている」と語った。子供はほぼ全員大学卒で教授やカメラマン、新聞記者など当時は珍しい文系職業についた。
 美津子の本は本人の手記をもとに、パリ在住の娘の教え子・優美が書いた。優美はブラジル人を父に、日本人を母にベルギーで生れ、日本語、英語、ポ語、仏語で読み書きが出来る。不思議な運命の糸が織り合わされて、このコスモポリタンな家族の物語が生れた。この本が書かれた経緯自体が美津子の人生の広がりを象徴している。(終わり、敬称略、深沢正雪記者)