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〜OBからの一筆啓上〜移民船と花嫁移民=田中敬吾(元パウリスタ新聞記者)

ニッケイ新聞 2011年10月26日付け

 1960、70年代、邦字紙記者は月に1、2度、入港する大阪商船やオランダ汽船の取材のため、サントスに下ることがあった。
 大阪商船では航海士か船長に、オランダ汽船では新移民の上陸に懇切な世話を焼いていた中野さん(愛称・船長サン)に、船内の生活やエピソードを聞いたものだ。下船した新移民にも取材したものである。
 花嫁移民も盛んな頃、多くの女性は出迎えに来た男性に迎えられて移住地に向かい、幸福な家庭を築いたようだ。
 ところが、中には写真で想像した男性と全く違うとダダをこね、下船を拒んで引率者や船員たちを困らせたり、航海中に若い船員と仲良くなったり、同船者の青年と意気投合して出迎えに来た青年をソデにして、さっさと港を後にした豪の女性もいて、エピソードに事欠かなかった。
 当時、高級料亭として繁盛していた「青柳」に〃取材〃に訪れたとき、出て来た女性を見てビックリ。何と半年くらい前にサントスで取材した女性。
 「どうしてここにー」と尋ねると、「旦那に引き取られましたが、一月も経つと、性格が合わず嫌で嫌でついに飛び出してここにご厄介になっています」とのこと。
 「青柳」は、夢に破れた女性たちの駆け込み寺としても知られており、この日本から来たばかりの新鮮で話題豊かな女性を目当てにバタテイロたちが不夜城の賑わいを見せていたものである。
 料亭の亭主、青柳三郎さんはまんまるな童顔のお地蔵さんのような人、駆け込んできた女性を温かく迎え入れ、帰国を手助けしたり、お客に見初められた良縁をまとめたりもした。
 料亭の亭主、とやや低く見られたが『コロニアの人物像』としては奇特な存在の人だ。再評価して記録に残していい愛すべきコロニア人と思う。
 花嫁移民といえば、相手の男性はコチア青年。大半の青年は本業の農業に定着したが、中には都会に出て商業、工業、飲食店などで成功した人も多く、弁護士、公務員で大成した人もいる。
 一方、異郷の地に馴れず、ノイローゼとなり、帰国したり、精神病院に入院した人もいた。
 70年代のある日、小畑博昭・元援協事務局長から珍しいところにーと連れて行かれたところが、ジュケリー管内(南伯農協発祥の地ともいわれる)の精神病院。
 広い院内は、美しい花壇が並び、遊歩道には患者が散策したり、ベンチで日向ぼっこをしたりして、長閑な風景だった。
 当時、6人くらいの日本人患者が入院していたが、そのうちの1人が、小畑さんを見て近寄ってきて、「院長に話をしてここから早く出して欲しい」と要求、「ここを出てどうするの…」「日本に帰りたい」とポツリ。あれから30数年、無事帰国して、幸福な家庭を営んでいるか、思いを馳せている。
 ここで驚いたのは、並んである病棟の一つに『パビリオン・ジャポネース』と日本を冠した病棟があったこと。
 清潔な病室には、患者がおとなしく療養生活をしていたが、著名な精神病院に『日本病棟』が存在していたことに、感動を覚えたものである。