ニッケイ新聞 2011年10月28日付け
琉球大学が主催した国際フォーラム「海外日系紙記者のみた移民社会」が14日午後、沖縄県那覇市のパレット市民劇場で開催され、東京の研究者らを含め予想を上回る約200人が集まり、熱心に討議に聞き入った。「第5回世界のウチナーンチュ大会」の一部として、米国ハワイ、アルゼンチン、ブラジルの日系紙記者ら4人が各地の日系社会の現状を報告し、地元紙「沖縄タイムス」は当日の様子を17日付けで一面を使って報じるなど、注目を浴びた催しとなった。
主催した「人の移動と21世紀のグローバル社会」プロジェクト移民研究班チームリーダーの町田宗博(むねひろ)教授は、最初に「研究者とは違う切り口や視点で、日系・沖縄系コミュニティや現地社会に対する知見を語ってもらう」との主旨を説明し、「日系紙記者によるこの種の試みは、おそらく日本でも初であろう」とのべ、発表者の経歴を紹介した。
同プロジェクト代表の山里勝己(やまざと・かつのり)教授の挨拶に続いて、ハワイ・パシフィック・プレス紙の仲嶺和男社長が発表した。「移民一世が健在だったころはよく〃日本国ハワイ県〃という言葉が聞かれました」とし、約36万日系社会はハワイ人口の28%を占め、「未だ人口の3人に1人は日系人・日本人です」と存在の大きさをアピールした。
同地のウチナーンチュ(沖縄県系人)のパワーが最も発揮されているのは今年第29回目を迎えた沖縄フェスティバルで、9月初旬の週末2日間に約5万人が来場し、沖縄芸能が披露された。
「ハワイには日本の縮図があり、その中でもウチナーンチュは〃正直さ〃を宝として輝いている」と締めくくった。
一方、亜国「らぷらた報知」の崎原朝一記者は、同地移住はブラジル、パラグアイ、ペルー、ボリビアからの転住者とその呼び寄せが大半を占め、結果的に「個人の自由渡航者」の集団であることが特徴だとした。
ブラジルでは農業移民が地方に植民地を形成したが、亜国では最初から都市部に自営業として入り、地歩を築いた。戦後は特に沖縄県系の呼び寄せに拍車がかかり、結果的に日系社会の70%を同県系が占めるに至り、文化的に大きな存在感を示すようになっているという。
ブラジルニッケイ新聞の深沢正雪記者は、1917〜18年に沖縄移民は渡伯集中期があり、この世代が後の永住志向や二世のブラジル社会での活躍を先導したと分析し、「戦後、勝ち負け抗争が起きて一般社会からの評価が最も低かった時期に、ブラジル社会で日本人の地位向上を図って〃切り込み隊長〃のように活躍したのは、本国では虐げられていたキリスト教徒(田村幸重)、隠れキリシタン子孫(平田進)および沖縄県系子孫(翁長英雄、山城ジョゼ)らだった」との考察をのべた。
最後にブラジル「ウチナープレス」紙(ポ語)の知念バネッサ記者は、「日系社会全般において、若者の日系団体への参加が減退している傾向が顕著。沖縄系コミュニティにおいても若者になるほど、母県との繋がりが希薄になる傾向は否定できない。その中で、世界のウチナーンチュウ大会のような機会は非常に貴重である」と意義を強調した。
沖縄テレビで「世界ウチナーンチュウ紀行」などの番組制作をした前原信一さん(まえはら・しんいち)が司会進行をし、「以前、ハワイの日系社会を取材した時に『忘れるな、受け継げ、伝えろ』が移民社会のモットーであると聞いた。我々の沖縄県側にいる人間も、このような海外の移民史をしっかり伝えていくことが原点であると思う」と締めくくった。