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県連移民のふるさと巡り=ガウチョの国に友訪ねて=亜国、ウルグアイ編=(4)=ラ・プラタで現地交流会=亜国の戦後移民らと懇談

ニッケイ新聞 2011年11月8日付け

 3日目の8日午前10時、ホテルを出た一行はラ・プラタで現地の日本人会と交流を行うため、ブエノスアイレスから南東に約65キロのラ・プラタ市へ向かった。
 アルゼンチン移民の始まりには諸説あるが、1886年にイギリス船に乗って上陸した牧野金蔵氏を第一号とするのが一般的だ。笠戸丸移民のうち160人が亜国に転住していることから、ブラジル移民とも関係が深い。
 戦前から野菜や花卉栽培が盛んに営まれており、戦後の混乱期を経て48年、花卉業者は土地を購入し始め、50年代初期には約50%を自作農が占めていた。
 野菜栽培も同じ時期に事業を拡大、独立を目指した日本人雇用者による近郊地域の土地探しが始まった。「ウルキーサ移住地」では花卉栽培が発展し、69年に日本語学校がスタート。仮校舎は日本人クラブの集会場として利用された。
 その後日本人クラブは「ラ・プラタ日本人会」になり、新会館が80年6月に完成。地域一帯は切花の主産地として経済力が充実、世代交代と重なり生活範囲が広がっていった。現在約160家族が住む。
 同地では毎年1月、一万人前後が集まる盆踊りを10年前から開催している。多くの屋台を設置、ブエノスアイレスからも、日本文化に興味をもつ非日系人が多数訪れるという。
 その他運動会を開催したり、移住地間で陸上やサッカー、卓球、バレーなどスポーツを通し交流が行われている。
 ラ・プラタ周辺には全部で14の日系移住地が開設され、戦後移民が入っている。その一部からも当日は交流会に参加した。『アルゼンチン日本人移民史』(社団法人在亜日系団体連合会発行)によれば、戦後の外務省実習生制度では57〜62年の間に43人の実習生が来亜。移住事業団に管轄が移されてからは「公募単独青年」と呼称が変わり、73年までに計300人以上の青年が渡来、それら移住地に入っているという。
 市の中心から南東に15キロほど走ったところで、右手に花卉栽培のハウス、左手にレタス畑、スーパーマーケット「HATANAKA」、「ラ・プラタ日本語学校」という文字がー。バスは12時半過ぎ、「ASOCIACION JAPONESA de LA PLATA」と書かれた会館前に到着した。
 待ち受けていた多くの現地日系人が一行を出迎え、一人ひとりと「こんにちは」「お世話になります」と握手しながら挨拶を交わしていた。
 会長は馬屋原進さん(62、広島)。58年に8歳でパラグアイへ渡り、70年、25歳で亜国に移った。「パラグアイで生きるのは大変だった。景気も悪かったし…。子供の教育を考えて移りました」と当時を振り返った。
 広い会館内に4列に並べられた長いテーブルに、同会会員や周辺の移住地から集まった約200人、ブラジル側からの参加者がずらりと座り、午後1時から交流会がスタート。馬屋原会長が「遠路遥々お越し頂き有難うございます。良い交流を」と挨拶した後、開拓先亡者、東日本大震災の犠牲者に黙祷が捧げられた。
 本橋団長は、「多くの方にお集まりいただき、嬉しい」と挨拶した後、県連や日本祭り、ふるさと巡りについて紹介した。「我々は移住者として境遇を同じくしている。同郷の人がいれば、ぜひ交流を」と話した。
 乾杯の後一同は、婦人部や青年部の皆さんが用意した食事を楽しみながら、歓談に花を咲かせた。(つづく、田中詩穂記者)

写真=参加者一行を出迎えた現地の皆さん