ニッケイ新聞 2011年11月9日付け
「日本に行って、南米の人の温かさを改めて実感した」と話すのは、参加者一行と積極的に会話し、写真を撮っていた津留アントニオさん(40、二世)=ラ・プラタ市内在住=。九州大学に留学経験があり、日本語が流暢だ。同地福岡県人会の会計も務めている。
アントニオさんも学んだラ・プラタ日本語学校には現在、日系150人、非日系40人の計190人が在籍する。日本語をもう一度学
びたい大人向けの「補習クラス」も週一回開かれている。
かつて6校に散在していた日本語学校は87年に統合の動きが始まり、91年に本格始動した。1年後に統合校がラ・プラタ日本人会館内に設立され、現在ウルキーサのほかラ・プラタ、東部ラ・プラタ、エル・パト、サンタ・モニカの5カ所の移住地(約400家族)から生徒が集まっている。
アントニオさんの父、浩さん(69、福岡)と話し込んでいた親が同郷の参加者、齊藤利治さん(70、二世)は、「色々と福岡のことを話しました。会えて嬉しかった」と笑顔を浮かべた。
食事と歓談を楽しんだ一行は最後、全員で「ふるさと」を合唱した。馬屋原会長が「懲りずにもう一度来てください!」と声を張り上げると、大きな拍手が沸き起こった。
交流会で本橋団長(鳥取県人会長)と歓談していた坪倉広加さん(77)と君枝さん(76)は、「レンガの家と倉庫、広い土地が最初から用意されていました。だからブラジルの人に比べたら苦労らしい苦労なんてしていないんです」と謙遜する。再来年には金婚式を迎える鳥取県出身の夫妻だ。
君枝さんは、数十年前に婦人会の旅行でブラジルを訪れた。「サンパウロ、アチバイア、オランブラに行きました。日系の人が多くて、きれいな町でよかったですよ」。
市から約20キロの地点にあるウルキーサ移住地は、ペロン政権時代に国営農業審議会によって首都、およびその周辺都市への野菜供給地にする目的で造成され、一区画8ヘクタール余りの土地が住宅付きで用意されていたという。イタリアから数家族が入植したが、ペロン政権が崩壊したため約10年間中断、放置され、60年代に入って再入植が始まった。
日本人移住者としては61年にブラジルから1家族、62年にドミニカ、ボリビア、パラグアイからそれぞれ1家族、63年に4家族、同年に日本から派米短期農業労務者制度(派米短農)で7家族が入植した。
この制度は、外務省が農村の中堅青年を米国カリフォルニアの農家に3年間派遣し、実習と研修を通して米国農業を習得させ、日本の農業の近代化を図ったもの。その派米青年がウルキーサ入植に適格だと考えられた。
君枝さんは、この制度を利用して米国で研修を行った夫の広加さんとともに63年、ウルキーサ移住地に入った。
主に花作りに従事し、カーネーションから始まり、現在はガーベラを生産している。野菜も栽培するが頻度は1〜2年に一度。野菜作りは、ここでは主にボリビア人が行っているという。
現在、息子のホセルイス正弘さん(46、二世)が主に引き継ぎ、全収入の2割を稼ぎ出している。
坪倉さん宅を訪れると見渡す限り、7町歩の土地にハウスが広がっていた。7町歩のうち1町歩をガーベラ専門に使用し、ハウスの数は全部で42、そのうち32を使用している。
「アルゼンチンの景気も決して良いとは言えない。でも花はいつの時代も必要。製品勝負でやっています」と広加さん。
そんな夫とともに日本を出た君枝さん。理由を尋ねると、「新聞に載っていた花嫁募集の広告を見て、これだと思った」という。(つづく、田中詩穂記者)
写真=坪倉さん一家(左から広加さん、ホセルイスさん、君枝さん)。ガーベラのハウスで(上)/会館で交流を祝し乾杯する一同