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高拓生80周年=(終)=パリンチンス唯一の俳人=戸口久子さん=高拓生と生きたアマゾン

ニッケイ新聞 2011年11月19日付け

 アマゾンにジュート栄えたる頃想ふ—。
 アマゾンで俳句を詠み続ける4回生の故戸口恒治さんの妻久子さん(77、宮崎)=パリンチンス市=。移住50年を迎えた2004年には句集『アマゾンに生く』を、昨年は同題の第2句集(79頁)を刊行するパリンチンス唯一の俳人だ。
 祝賀会でパラー州モンテ・アレグレの第2回入植者として来伯した頃の思い出を聞いた。
 「日本にいたら、次は何が起こることか。ブラジルに行こう」と戦争から帰還した父が家族を説得した。
 周囲の心配をよそに「父母が行く所はどこでもついていきたい」と1954年7月に着伯した。20歳だった。
 高拓生との初めての出会いは移住直後、入植地形成時に遡る。入植に適した良質土壌密林に3人の探索隊が分け入り、道に迷って3週間彷徨った。指導員として同行していた高拓生の石黒粂吉さん(4回生)の、密林で生き延びる知恵が命を救ったことを聞いた。
 「ポ語もよくできる人だった。この人のおかげで助かった」。高拓生への信頼が生まれた瞬間だった。
 後に石黒さんの紹介で恒治さんと知り合う。すぐに結婚を申し込まれたが親を思う気持ちは強く、「しばらくは両親の仕事を手伝いたいから、3年間待ってほしい」と答えた。
 若い久子さんに真剣に交際を申し込む別の候補者も現れたが「約束を破って人の一生を台無しにすることはできない」と固い決意で約束の3年後を待った。
 石黒夫妻を仲人に結婚式を挙げたのが57年、当時22歳、恒治さんは42歳だった。パラー、アマゾナス州の中間に位置するサンジョアキンと呼ばれるアマゾン川流域に、雨季の浸水を避けるため地上1・5メートルの高さに新居を構えた。
 恒治さんは高拓同期生3人と共同で、ジュート苗の貸付け栽培を奨励するなどの事業を手がけた。
 久子さんは「自分も家の中で出来ることを」と裁縫を始め、町から買ってきた布で洋服を作り家計を支えた。ブラジル人に売ると「すごく喜ばれて良く売れた。地域の祭りがあった日、皆私が作った日本の洋服を着ていたくらい」と笑う。
 子供の教育のため72年にパリンチンス市に移り住み、食料品店を営んだ。子供は親の努力に報いるように勉学に励み、エンジニアや医者など立派に自身の道を歩んで行った。恒治さんは86年に逝去、以来長男家族と同居し今も現役で店に勤務する。
 長男オトニエルさんに寄り添われながら「良くこんな人に出会えたと思うほど、理解のある落ち着いた人だった。アマゾンに来たことに後悔は無い」と微笑んだ。
 アマゾンは二世の故郷天の川—。
 高拓生と妻たち、そして子弟—多くは町に移り住んだが、それぞれの歴史は今もアマゾンに刻まれている。親からバトンを受け継いだ子弟たちが実現させた、州政府による謝罪は先没者の辛苦を癒し、その歴史を根付かせていくことだろう。80周年を経た今、高拓生らの潰えた夢が花開きつつある。(児島阿佐美記者、おわり)

写真=ミサがあった教会で、戸口さん