ニッケイ新聞 2011年11月23日付け
「初めは少し日本語をかじってみたかっただけだった」とカリオカ訛りでミシェリ・エドゥアルダ・ブラジル・デ・サーさん(35)は語り、人懐こい笑顔をうかべた。元はリオ連邦大学のラテン語教授だったが、今年8月に開講したアマゾナス連邦大学日語学科のコーディネーターを務める傍ら、同地の日本移民の研究に取り組む〃日本通〃になった。昨年は高拓生に関する歴史書『A Imigracao Japonesa no Amazonas』(アマゾナス連邦大学出版、106頁)も刊行した彼女に、高拓生研究のなれ初めを聞いてみた。
リオ連邦大でポ語を勉強していた頃、日語学科の友人が漢字を練習する様子を目にし、その形状の美しさに惹かれた。「この字(休)は木に人が寄りかかって休んでいる様子を表している」との説明を聞き、「僅か一文字に込められた豊かな意味に衝撃を受けた」と目を見張る。
漢字への好奇心から日語学科の聴講生になった。「少し勉強してみるだけのつもり」が、礼儀や規律、日本文学など日本文化を知れば知るほど魅了され、ポ語学科卒業後に日語学科への再入学を決意した。
01年同学科卒業後は同大学でラテン語の教師を務めたが、06年に夫の転勤でマナウス市に引っ越し多くの日本移民に出会う。「日本移民の入植地といえばリオ、サンパウロ、パラナが強調されていたから本当に驚いた」と振り返る。
日本移民への好奇心がうずき、大学の歴史教授を尋ね、図書館で資料を請求したが、待てど暮らせど返答なし。アマゾン日本移民が80周年を迎えた09年すら現地メディアはあまり取り上げなかった。
そんな時、ようやく見つけたのが「アマゾン高拓会」のサイトだった。高等拓殖学校の卒業生(高拓生)の子孫が設立した会で、その歴史を継承することを目的に活動している。
早速、佐藤ヴァルジル会長に連絡を取り高拓生の歴史を聞いた。「高拓生が先駆者としての苦難を乗り越え、ジュートでアマゾナス州に産業を興したことを知って感激した」と目を輝かす。
詳しいデータを求めて高拓生の子孫にもインタビューを試みた。だが、個人情報を明かすことに抵抗を感じる人が多くて協力が得られず、佐藤会長の話を基に10年7月に同書を刊行した。
現在は高拓生事業の創始者、故上塚司氏が残した、アマゾニア博物館収蔵の報告書を調査中。当時の土の気温や作物の様子などが毎日詳細に記録されている。「1930〜40年代に書かれたもので、全て日本語だからすごく難しい。でも西部アマゾン日伯協会の錦戸健会長夫妻の手を借りて、辞書を片手に読んでいる」と研究活動は充実の様子。
「今は日語学科を軌道に乗せるのが先決。学科が落ち着いたら本の執筆に取り掛かり、日本人の貢献の歴史を広く知らせたい」と意気込んでいる。