第4回=移民が支えた母県経済=海外送金が県歳入の6割

ニッケイ新聞 2011年11月30日付け

 第1回ハワイ移民団27人をのせて1899(明治32)年12月5日に那覇港を出港した薩摩丸は、1900年1月8日にホノルルに到着した。これを結成したのが〃沖縄移民の父〃當山久三(きゅうぞう)だ。
 当時の奈良原繁(しげる)第4代知事(1892—1908年)は薩摩藩出身であり、強権を持って県政に望んだとウィキペディアにはある。明治政府は1879年に実施した「琉球処分」で琉球王国は消滅し、沖縄県が新たに設置された。この時に〃王国〃をなくした喪失感が代々に受け継がれ、沖縄県人の強い同族意識の原点を形作ってきたようだ。
 移民送り出しに「時期尚早」と否定的な知事にとって、東京で自由民権運動の影響を受けた當山は政敵ともいえる存在だった。「移住する権利」を獲得することは県民への差別撤廃を意味し、當山の悲願だった。そんな強い向かい風の中、ハワイ移民を実現した。
 『沖縄県史7・移民』(沖縄県教育委員会、1974年、以下『県史7』)によれば、初移民の後、3年間の中断期間を経て、出移民が全盛になったのは1903年以降、1904年には日本全体の移民総数の5・7%を占めるようになり、翌1905年以降10%以上の年が多くなる。
 1885年に始まった本土からの移民事業に遅れること17年、堰を切ったように沖縄の移民は増加した。そんな1908年、米国政府はハワイ行き日本移民を禁止した。つまり、笠戸丸が出港した1908年は沖縄から見た出移民が助走を終えて最高速になった頃だ。米国での日本移民排斥が強まるに従い、ブラジル行きが急浮上した。笠戸丸移民の半分近くが沖縄県人だったのには、そのような背景があった。
 1925年時点で、都道府県別に見た住民1万人当りの出移民数統計(『県史7』12頁)の堂々の1位は、沖縄県の429人だ。単純計算すれば25人に一人、一族に必ず一人は移民がいるという状態だった。2位は和歌山県110人、3位は広島県69人、4位は熊本県59人だった。
 さらに時代が進むと沖縄の移民比率はもっと高まる。母県人口に占める海外在留者の人口比率統計(同13頁)によれば、1940年時点で海外在住者5万7283人に対し、沖縄県人口は57万人余だったので、人口の1割にも達していた。熊本県は4・8%、広島でも3・9%だから断然トップの比率といえる。
 海外移民は母県の家族に必死で送金し、家計を支えた。沖縄県の場合、移民送金額を1929年の県歳入総額に比較すると、なんと66・4%に達していた。逆にいえば、それだけ母県の経済は疲弊しきっており、移民する以外に生活手段がなかった。移民事業はまさに母県経済の大黒柱であった。他県ではありえない依存度、移民との関係といえる。
 1908年から1922年までの期間の最多送り先は1位がハワイ、2位がブラジル、3位がペルーで、この3つだけで全体の86%を占めた。1924年に米国が全土で排日移民法を実施するにいたり、行き場を失った移民はブラジルに集中するようになった。
 1935(昭和10)年の調査で、沖縄県の市町村別にどれだけの人がハワイに渡ったかを調べた調査がある。トップは沖縄本島の中頭郡からの47・9%で、実に出移民の半分がハワイへ渡った。2番目が島尻郡の35%、3位は国頭郡の16%となっている。同じ地域出身者が固まって移住し、海外でも集団を維持した。沖縄県人会に多くの村人会という独特の存在があるのは、このような歴史に由来する。
 世界のウチナーンチュ大会は移民大県だった歴史を逆手にとった発想だ。歴史をふり返り、そこから未来を発想する。ここに現在に至る県人の強いつながりの秘密があるのかもしれない。(深沢正雪記者、つづく)

写真=〃沖縄移民の父〃當山久三