ニッケイ新聞 2011年12月1日付け
ブラジルでは1970年代前半以降、ほぼ新来者は途絶えたが、ハワイではまだ続いている。
ハワイには1924年までに20万人もが渡ったが、戦後もアメリカ人との婚姻者に加え、戦前移民の呼び寄せが3親等(現在は1親等のみ)まで認められていたことから数万人が渡った。
『ハワイパシフィックブレス』紙の仲嶺和男社長身も、琉球新報で記者として5年ほど働いた後、40年前に親戚の呼び寄せでハワイに渡った戦後移民だ。
仲嶺さんは戦後の特徴として、「米軍人と結婚した日本人女性が7千人もいる」という。それに加え、「今でも日本人は毎年、300人ぐらい抽選で永住権をもらって米国に移住しています。その多くがまずはハワイで慣れてからと寄っていくので、実はけっこう新しい日本人が今でも増えている」と米国ならではの事情を説明した。
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米本土からの参加者の中にもアメリカ人の夫を持つ女性の比率が高く、やはり進駐軍と結婚した女性が移り住んでいる割合が高いことを反映しているようだ。米国日系人の特徴の一つだろう。
米国在住40年のサンフランシスコ沖縄県人会(約200人)のルズフォード千鶴さん(72、沖縄)は4回目の参加だ。「ただのウエルカム(いらっしゃい)ではなく、ここではウエルカム・ホーム(お帰り)といってもらえるのが嬉しい」としみじみ語る。
カリフォルニア州だけで沖縄県人会は4つもある。千鶴さんは近くのサクラメント県人会にも顔を出すという。「毎月集まるグループもあって、ウチナー同志食べて笑って楽しむ。20〜30人集まる時もあるんですよ」と楽しそうに笑う。
ただし、「50州もあるから全米の県人会員がみんな集まるのは難しい」とも指摘した。世界のウチナーンチュ大会前夜祭の帰還パレードでも、人数の上では最多の米国勢は各地域ごとにバラバラにシャツを作っており、ハワイ以外の米国勢が圧倒的な存在感を見せることはなかった。
その点、ブラジルはサンパウロ市の沖縄県人会とジアデマの沖縄文化センターが全伯の本部機能を担い、南麻州カンポ・グランデのような遠距離でもものともせずに、統一行動をする点に特徴があるようだ。
千鶴さんは「息子はテキサスに住んでいて、年に一度会うだけ。進駐軍だった夫とは英語ですが、息子は幼い頃から日本語を話して聞かせたので会話はできる」と胸をはる。
3回目の参加のオーバーホルサー敏子さん(71、今帰仁村)は在米30年、米国籍に帰化しているが、「毎年沖縄に帰ってくる。自分ではアメリカ人というよりウチナーンチュだと思っている。向こうの土に骨を埋めるつもりだが、元気なうちは毎年帰りたい」との気持ちを吐露する。
敏子さんは進駐軍だった夫と1970年に結婚、「夫が大の沖縄好きで、日本語も日常会話ならOKなので、家庭の中は日本語で通した。子供が日本語を話せるようにするというのは、彼の願いでもありました。普通の夫は英語にこだわるので、特別な環境だった」と微笑む。
「子供にも行こうと誘ったが今回は断られた。きっと次回は連れてくるつもり」とのこだわりを見せた。(深沢正雪記者、つづく)
写真=オーバーホルサー敏子さん