ニッケイ新聞 2011年12月7日付け
笠戸丸移民とその子孫の足跡を追ったドキュメンタリー『笠戸丸移民100年の証言』(47分、日本語)がこのほど完成した。制作したのはサンパウロ市にあるFDP記録映画製作所のプロデューサー野崎文男さん(79、東京)とカメラマン兼監督の佐藤嘉一さん(79、大阪)。足かけ7年の制作期間を経て完成した同作品にかけた思いを野崎さんに聞いた。
「私が来伯した頃には『オー、ジャポン』と馬鹿にされていた日本人が今日の繁栄を享受しているのは移民達の努力があったから。それを歴史として残さなければ、という使命感があった」
野崎さんは59年に来伯、東山銀行で勤務した。「映画が娯楽として全盛の時代。自分も撮ってみたいと思っていた」
71年に来伯した佐藤さんと出会い意気投合、FDPを設立した。UPI通信社にブラジル国内ニュースの映像を送る傍ら、ブラジルの自然や動物のドキュメンタリーを製作した。
しかし、映像製作だけでは生活できず、サンパウロ市で鞄工場を経営したり、パウリスタ新聞に務めたりして糊口をしのいだ。
デカセギのため89年に日本へ帰国したが、04年に同じく日本に戻っていた佐藤さんと共に、本作品を製作するため、再び海を渡った。
重いカメラを担いで、アマゾニア5州に住む笠戸丸子孫24家族へ取材を行った。笠戸丸移民781人のうち325人が沖縄県人であることから、沖縄県人会に協力を依頼、名簿を頼りに子孫を探した。
走行距離は1万キロに上り、録画時間はは35時間にも及ぶ。「笠戸丸移民の子孫がいる」と聞いて現地に赴いたが空振り—ということも数多くあった。
「実際に会えても二、三世で親や祖父母のことを覚えている人は少なかった」と苦労を語る。それでも諦めなかった。 「マラリアで亡くなった人。子供を取り上げることになり、うろたえる男、鉄道工事の仕事で金を得て、念願だった自分の農地を得た人。一人一人の歴史が大切なんです」
日本移民百周年の08年完成を目指し撮影を行っていたが、百周年式典の撮影後、佐藤さんが脳梗塞で日本に戻り入院、続けて野崎さんも頚つい損傷で入院した。
佐藤さんと親交のあった東京のビデオ会社に編集協力を依頼し、今年ようやく完成に漕ぎつけた。日本で15年間稼いだお金と年金のほとんどを製作につぎ込んだ力作だ。
ドキュメンタリーは06年に亡くなった最後の笠戸丸移民、中川トミさんの証言や葬儀の様子といった貴重な映像が盛り込まれ、移民政策の経緯や移住後の生活、そしてその後の日系社会の繁栄がまとめられている。
野崎さんは「彼らの苦労は50年、100年と伝えていきたいが、日本語が分かる日系人は少なくなる」とポ語への翻訳を考えている。
「まだ後遺症で体がいうことを聞かない」と苦笑しながらも「今回の制作のために集めた資料をまとめた本を執筆したい」と意欲旺盛に語った。
◎
ブラジル初の上映会は15日午後7時から、沖縄県人会館(Rua Tomas de Lima, 72, Liberdade)で行われる。入場無料。
上映会のお問い合わせはFDP(11・3112・0455)まで。