ニッケイ新聞 2011年12月9日付け
ブラジル日本都道府県人会連合会には、おそらく世界で唯一、47県全てが揃っている。米国にも多くの県人会があるが、地域ごとに活動しており、全国規模でまとまった連合会活動をする組織はないようだ。
ほとんどの県人会がサンパウロ市、なかでもリベルダーデ区に集中しており、この高密度な状況は世界でも特徴的だ。だからこそ、地元開催としては世界一の規模である「日本祭り」が可能になる。母県との強い絆を持つ各県人会、それらを束ねる県連という存在が相まって、当地の日系社会の〃日本らしさ〃を強く演出する。
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そんな47県人会の中でも、沖縄県人会は最多の44支部を持つ。うち18支部が会館を持っており、各支部が通常の「県人会」規模か、それ以上に活発な活動をしている。沖縄県人会は単なる「県人会」というより、亜国のように「沖縄県人会連合会」を名乗ってもおかしくない規模だ。
調べてみると、実は戦前(1934—35年頃)にはなんと72支部もあった。当時はジュキア線や南麻州カンポ・グランデに沖縄県系が集中していた。県人会の前身である球陽協会がジュキア線で1926年に創立したのは、その状況を反映している。
沖縄県人は「差別」を受けて他県人よりも移住開始が遅かったが、ブラジルでも2回、日本国外務省から渡伯禁止された歴史がある。笠戸丸こそ半数近くを占めたが、同県人の耕地逃走やストライキが頻発したことから、外務省は1913年から16年までと、1919年から1926年まで渡伯禁止にした。球陽協会は移住の本格解禁を訴え、受け入れ態勢整備のために作られた。このような創立経緯を持つ県人会はおそらく他にない。
戦後、出聖者が激増し、大サンパウロ市都市圏が急激に増えた。支部数自体は減ったが、サンパウロ市周辺の各支部の人数は急激に増えた。大サンパウロ市都市圏だけで現在10支部あり、そこだけで全沖縄県系人15万人の半分が集中していると見られる。
『沖縄県人移民史』(00年、同県人会、以下、『沖縄90年史』と略)の250頁、1973年時点で会員数最多はカーザ・ベルデ支部(371人)、ビラ・カロン支部(346人)となっている。いまもこの2支部が県人会の両輪ともいえそうな地区だ。
両方とも那覇市内の一つの「字」(通り)である小禄(オロク)出身者が最多を占める地区だ。百周年協会理事長を務めた上原幸啓さん(準二世)、県連で沖縄県系人としては初めて県連会長を務めた与儀明雄(二世)前会長らが小禄出身者、同子孫として有名だ。
この地区は第2次大戦中、日本帝国陸軍の飛行場があった地区で、米軍は上陸する前に徹底した艦砲射撃や空爆を行い、地上にあったものは跡形もなく吹き飛ばされ、残ったのは蜂の巣のような爆弾跡だけだったという場所だ。戦後移民がここに集中したのには悲しい歴史があった。
同県人会の与那覇朝昭(ともあき)事務局長によれば「戦前よりも戦後移民の方が多い印象がある」という。通常、どこの県人会でも戦前の方が多い。戦前は約20万人、戦後はわずか5万だから当然だ。
ではなぜ沖縄の場合は戦後移民の存在感が強いのか。第2次大戦で唯一の地上戦を体験した歴史と無縁ではないだろう。
『沖縄90年史』の116頁によれば、戦後移民の総数は6175人にもなり、全戦後移民の1割を軽く超え、3500人前後の2位、3位を大きく引き離している。戦後に大きな団塊世代を持っていることが、現在も同県人会が活発に活動を続ける理由の一つだ。例えば3番目に大きなサントアンドレ支部には戦後移民が集中している。
一般の日本移民は戦前と戦後各1回ずつ団塊世代を形成しているが、沖縄県系人には3回ある。次節からその流れを追いつつ、沖縄県系の歴史的特徴に迫る。(深沢正雪記者、つづく)
写真=前夜祭の帰還バレードで圧倒的な存在感をみせるブラジル勢