ニッケイ新聞 2011年12月10日付け
「トラ!トラ!トラ!」。昭和16年(1941年)12月8日午前3時19分。183機の飛行隊を率い真珠湾の米太平洋艦隊を空爆した総指揮官の淵田美津雄中佐が、奇襲成功を知らせる暗号の電文である。あれから70年の歳月が過ぎた。あの真珠湾侵攻は連合艦隊(山本五十六司令官)傘下の機動部隊(南雲忠一中将指揮)の猛攻撃だった▼機動部隊は11月26日、択捉島の単冠港で山本司令官から「ニイタカヤマノボレ1208(予定通り攻撃せよ)」の命令を受け「赤城」「飛龍」など空母6隻を軸に戦艦・重巡と共にハワイに向かったのだが、あの猛爆については「手ぬるい」の批判が今も語られる。海からの作戦もあった、特殊潜航艇5隻が潜行し攻撃する計画だったが失敗し、乗組員10人のうち9人が戦死。酒巻和男少尉だけが助かり、日本人捕虜第一号となった▼だが—大東亜戦争が始まる直前には、米国務長官のハル・ノートや米大統領の対日石油禁止といった強硬策が日本を強く刺激したのも否定できない。勿論、戦争に踏み切った東条英機内閣にも疑問は残る。伊藤正徳は「連合艦隊の最後」で「戦争を決めた少数の犯人は万死に値する」と厳しいけれども、その犯人の多くは陸軍の幹部であった▼あの戦争では13万人の学徒出陣もあったし、敗色は濃く「ポツダム宣言」となるけれども、今—顧みると、戦後に陸続としてアジアの国々が独立したのは「あの戦争のおかげ」の評価もある。ならば—昭和18年のアジア6カ国首脳による「大東亜会議」はもっと注目されてもいいのではないか。(遯)