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第16回=ペリー来航が歴史の分岐点=琉球独立図った米国政府

ニッケイ新聞 2011年12月17日付け

 沖縄県の近代史をめくると、その最初には「ペリー来航」が記されているが、実は、本土の歴史とは少々違う。
 通常は1854年に7隻の軍艦を引き連れて横浜沖に迫り、3月に日米和親条約を調印したことはよく知られている。ところが、その直ぐ後、その船団は那覇に寄港して7月に、琉球王国とも「琉米修好条約」を締結している。米国によるこの行為が後の歴史を大きく左右することになる。
 さらに歴史を紐解くと、日米和親条約の前年1853年5月に黒船は那覇に初来航している。そこでペリー提督は開港を求め、薩摩藩は幕府に判断を仰ぎ、琉球の開港を許可した。この時点で本土に先駆けて沖縄から「開国」が始まっていた。
 ペリー提督は琉球が開港に抵抗した場合は、武力をもって占領することをミラード・フィルモア大統領から許可されていた。しかし、歴史的には琉球は独立国ではない。1609年に薩摩藩が3千の兵力で琉球侵攻を行って以来、薩摩藩の付庸国となっていた。
 つまり、江戸幕府が琉球を〃別扱い〃したことで、日本とは異なる国家だとの第一印象を米国は持ってしまった。
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 その後、沖縄県は大正から昭和初期にかけて大恐慌の渦中に巻き込まれた。同規模県の2倍もの国税を徴収される苦境におかれ、沖縄の農地の6、7割は銀行の担保に入っていた時代だったという。ソテツ以外に食べるものがない「ソテツ地獄」に苦しみ、海外移住以外に生き残りの活路は見出せなかった。その中で明治政府に対するある種の抵抗運動のようにハワイ移民は始まり、大量の移民子孫が南北米大陸にちらばった。国内のゆがみがここに集中したために移民が多く生まれた構図だ。
 太平洋戦争が終結した時、日本を占領した米国は沖縄県と奄美群島を本土から分割統治した。ウィキペディアの「琉球独立運動」の項目には次の説明がある。
 分割統治したことに関して、《これはかつて琉球王国があった1854年に、那覇を訪れたペリー提督の艦隊により琉米修好条約を締結した歴史を持つアメリカ側が、日本と琉球は本来異なる国家、民族であるという認識を持っていたことが主な理由だった。また、この割譲はアメリカにとって「帝国主義の圧政下にあった少数民族の解放」という、自由民主思想のプロパガンダ的意味もあった。ファシズムに勝利したという第二次世界大戦直後の国内の自由と民主主義への期待と高揚から、統治当初は、アメリカ主導での将来的な琉球国独立の構想が検討されてもいた。
 占領国アメリカがこの認識を持って日本領を分割したことは、日本(琉球)側にも大きな影響を与えることとなり、自らを琉球民族と定義する人々のナショナリズムを刺激し、琉球独立運動の動機となった》。
 1949年から冷戦が激化すると、沖縄本島は極東最大の米軍基地が置かれるようになり、米国から〃太平洋の要石〃とまで言われた。
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 かつては日本国内、アジア地域の歴史的な力関係のひずみが、その中間に位置する沖縄に集約的に現われ、その結果、独特の国際的なバランス感覚を育んできた。
 グローバル時代には中国の代わりに米国が覇権国の位置を占めるようになり、日米の狭間で二文化を使い分けるようになってきたようだ。
 ゆがみゆえに押し出された大量の移民は、いち早く新大陸で地歩を築いた。その結果、出身地(旧世界)の秩序がひっくりかえる現象が起き、沖縄系が南北米諸国で最大派閥を形成する結果となった。そんな移民や子孫を国際的な〃宝〃だと発想したのが今大会だ。(つづく、深沢正雪記者)

写真=ペリーから始まる沖縄の近代史(『沖縄の百年』第1巻人物編・近代沖縄の人々、1969年、琉球新報、11頁)