ジョアンジーニョ氏死去=リオのカーニバルに〃革命〃=コンテスト優勝11回
ニッケイ新聞 2011年12月20日付け
リオのカーニバルのディスフィーレ近代化に貢献したアーティストのジョアン・ジョルジ・トリンタこと〃ジョアンジーニョ・トリンタ〃氏が、17日に肺炎や尿路感染に伴う敗血症のために入院先のサンルイスの病院で78歳で亡くなった。18日付伯字紙が報じている。
1933年11月マラニョン州サンルイス生まれのジョアンジーニョ氏は、1951年にリオに移住した。事務職を経た後にダンサーとなり、62年からエスコーラ・デ・サンバのアカデミコス・ド・サルゲイロに加わった。そこで出会ったのがフェルナンド・パンプローナ氏とアルリンド・ロドリゲス氏で、63年にはリオのカーニバル史上に残る名作「シカ・ダ・シウヴァ」の制作にも携わった。
73年からは同校の総合コーディネーターとなり、74年に名作「幽霊島のフランス王」で優勝したのを皮切りに、5年連続でスペシャルグループ優勝を果たした。76年にベイジャ・フロールに移籍した時代が全盛期といわれ、同氏が手がける豪勢なフロート車(山車)と絢爛な装飾はカーニバルに革命をもたらしたとさえ評される。
ときにそのきらびやかさがリオの貧困層にとって行き過ぎたものだとの批判も受けたが、ジョアンジーニョ氏は「貧しいからこそきらびやかなものを求める」との自説を一切曲げずに創作を続けた。
97年まで11度の優勝を誇る同氏だが、もっとも有名な作品は89年に準優勝に終わった「ねずみとはげ鷹よ、私の衣装を広げておくれ」で、コルコバードの丘のキリスト像を模し乞食に扮した像をフロート車に乗せたが、教会からの検閲で袋をかぶせたまま行進するという伝説を残した。また、90年代以降の作品ではマット・グロッソ州政府や鉄鋼で知られるヴァーレ社をスポンサーに迎えるなど、エスコーラ・デ・サンバの賭博収入に頼らない制作姿勢も打ち出していた。
ジョアンジーニョ氏は96年に脳血管障害を起こして以降体調を崩し、2004年に再び倒れた後は車椅子の生活を余儀なくされていた。今年5月と6月に入院後、12月3日からサンルイス市のUDI病院に入院していた。
同氏死去の報を受けたジウマ大統領は「ジョアンジーニョ氏の喜びと才能を欠いたカーニバルは悲しいものになるでしょう」と追悼コメントを発表。通夜にはベイジャ・フロールのネギーニョらも参列。遺体は19日、生誕の地でサンバの音が鳴り響く中、葬られた。