ニッケイ新聞 2011年12月22日付け
大会のあるシンポで北米子孫が、「私は〃沖縄〃というヤマト(本土)がつけた呼び名は好かない。伝統的なウチナーという呼称を使いたい」と発言したのを聞き考え込んだ。別の海外子孫は「最近の若者はウチナーグチもしゃべれないし、沖縄ソバの味も昔とは変わってしまった。もっと伝統文化を大切にして欲しい」と注文をつけた。
主催者側はその種の発言を重く受け止め、「今の沖縄はもっとこうあるべきという意見は他にないか」と発言を誘った。
普段なにげなく使っている「沖縄」という言葉には、地元の人間からすると少し違うニュアンスがあるようだ。いったいそれは何なのか。
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家譜(家系図)の歴史で触れたように沖縄の歴史には常に二文化性が付きまとうことは説明したが、実は内部的にも二重構造があるようだ。
例えば、本土では戦時体制として県紙は各県一紙に統制された。ところが沖縄には創立1893年の「琉球新報」と、創立1948年の「沖縄タイムス」の2社が競い合っている。テレビ界も「琉球放送」(1954年設立)と「沖縄テレビ」(1959年設立)がある。
銀行では「琉球銀行」(1948年)と「沖縄銀行」(1956年)。学術分野でも「琉球大学」(1950年)と「沖縄大学」(1974年)などが生み出された。
それぞれが業界の中で競い合いながら全体を盛り上げるようなパターンにつながっているようだ。不思議なことにその多くが「琉球」「沖縄」という対のような名称になっており、古いほうが「琉球」を名乗る傾向がある。
方々の沖縄関連サイトの記述から考察すれば、基本的には「琉球」は中国との外交関係の中で使ってきた名称であり、「沖縄」は同様に日本に対して名乗ってきた名称であり、どちらも正しいのだという。しかし、米軍占領時代に沖縄人の「琉球ナショナリズム」が刺激されたこともあって、「琉球」こそが伝統的名称であるかのように理解されている雰囲気がある。
米国による分割統治のために作られた行政機構が「琉球政府」だし、その政府方針で設置されたのが「琉球銀行」であり、「琉球大学」だという。米国という〃官〃が積極的に「琉球」という呼称を復活させてきた。現代の文脈の中では、「琉球」という言葉のニュアンスには「失われた王朝」への憧憬を超えて、もっと強い方向性がある。
「琉球」「沖縄」を名乗る二つの組織はそれぞれが伝統、革新の肌合いを持って民衆の二文化性を反映し、時代に応じて活性化させる役割をしている。わずか150万県民しかいないにも関わらず、特に芸能界、観光において強い存在感を発揮しているのは、そのような独特の自立的な活性化の仕組み持っているせいかもしれない。
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ブラジル沖縄県人も、「沖縄県人会」と「沖縄文化センター」の二派に分かれて、激しい論争を繰り広げてきたことは記憶に新しい。これは母県のDNA(遺伝子)がそうさせたのかもしれない。
まるで大会の盛り上がりと軌を一にするように、それが08年前後に統合に向い、現在は一体となって活動している。
もちろん、この二重構造が足の引っ張り合いという形に終始すれば、激しい消耗戦を演じるだけだ。一つの目標に向かって、良い意味での切磋琢磨するライバルとして機能してこそ活性化作用となり、お互いが持つ本来の能力を発揮できる。
米軍基地問題など日本からの〃外圧〃が強ければ強いほど、一つの方向に向かって力を合わせようとする集団心理が働くのかもしれない。「沖縄」でも「琉球」でもない「ウチナー」に向かって力を合わせる方向性をもった大会であるがゆえに、時流に推されるようにしてだんだんと拡大してきているようだ。(つづく、深沢正雪記者)
写真=県人会長・新ウチナー民間大使会議の結論を副知事に手渡す海外子孫代表