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サントアンドレーに広場も=一度も沖縄に帰らずに逝去

新年特集号

ニッケイ新聞 2012年1月1日付け

 1889年1月13日、沖縄県美里村東恩納(現うるま市)に生まれた政人氏は19歳で、中頭郡出身の宮里盛秀氏の構成家族として笠戸丸で渡伯した。
 カナーン耕地に配耕されたが一年経たないうちに逃亡し、サンパウロ市に移った。そこで掃除夫、庭師などとして働きながら2年過ごした。憲兵隊の傭兵にもなったとの記述もある。
 1911年にサントスへ移り、港のドッカスで荷役夫として働いた。1912年着の厳島丸で渡伯した山城ウシャさん(故山城ジョゼ氏のおば)と14年に結婚。ジュキア線ペドロ・バーロスに移り、米作りに従事した。16年に再びサントスに戻り、ホテルの従業員として働くかたわらカジノ(賭博場)の会計、取仕切り人となり、そこで子供5人をもうけた。
 数年後に子供の教育を考えスザノに移り住み、米作りを目指したがうまくいかず苺の栽培に従事し、ようやく成功を収めた。町は「苺の町」として知られるようになり、苺祭りも開催した。その他、養鶏や商売も営んだという。また新たに7人の子供に恵まれた。
 57年にサントアンドレーに移り、80歳で亡くなるまで過ごした。家族によれば渡伯後は日本に一度も帰ることなく、ブラジルの土となった。妻のウシャさんは後を追うようにして69年に亡くなった。
 83年、「移民の日」を記念し同市長から表彰され、同年には政人氏の名前がついた広場「プラッサ・セイジン・トグチ」が同市ジョアン・ラマーリョ区にできた。