ニッケイ新聞 2012年1月31日付け
2両編成の指宿たまて箱号は、先にもふれたように車体が白黒のコリンチャンスカラーで、見ていたら、乗客が下車すると車体の上部から白い煙を吐き出したのだ。
驚いて駅員に聞くと、玉手箱のけむりだという。薩摩隼人はそこまでやるわけだ。蝦夷の末裔たる佐竹衆など逆立ちしても浮かばない発想だろう。
玉手箱については、全国に数多い竜宮伝説が指宿地方にもあることにちなんだようだ。ハナシは、竜宮つまり琉球に渡った浦島太郎が3年後に乙姫さまを伴って戻り、やがて授かった子が神武天皇の父になるというトテツもないドラマである。
伝説とはいえ、ここまで風呂敷を広げられると、聞き手も大らかな気分になり悪くない。この大風呂敷にむこうを張れるのは、津軽衆のキリスト到来伝説(実際、大真面目に墓まである)ぐらいのものか。
たまて箱列車に入って、ふと頭をひねった。移民のわたしはもう滞伯50年にちかい。かつては久々に帰国すると、ブラジルでの日々が竜宮城の出来事であったかのように振り返ったものだが、近年では意識が逆転してしまった。日本からこちらに帰る度に、母国が竜宮になってしまう。 玉手箱のけむりを浴びずとも、故郷でも白髪の老体に変わりないのだが—。
六分入りの車内は、若いカップルが大半を占めている。わたしは迂闊にも、今年が太平洋戦争開戦70年となることを失念していた。列車が走る先に知覧のあるのを思い出して、おもわず顔面が張りつめたような感覚を覚えた。
あの大戦末期、薩摩半島の知覧陸軍航空隊基地からは連日、日本近海に迫る米艦船をめがけて特攻機が飛び立って行った。鹿児島湾を挟んで薩摩半島とは対岸の大隅半島の鹿屋海軍航空隊基地からは、陸軍よりはるかに多い特攻機が南海に敵を求めて飛び去った。特攻機は陸海合わせて4千機以上。何人の若者たちが散華したことだろう。
わたしは思わず立ち上がってしまった。周囲を見回すと、若い乗客らは女性車掌にデジカメの撮影をせがんだりして、屈託もなく笑いさざめいている。車内の観光アナウンスで、知覧や鹿屋の名前すら挙がらなかったことにもわたしは腹立たしかった。
その一方、指宿の温泉しか頭になかった己にも忸怩たる思いでいた。戦争を知らない世代を諭す資格が自分にあるのかと—。ただ、大戦に関わった最後の世代の一人として、誰かに何事かを言わなければならないような焦燥感も同時に感じていた。
しかし結局、観光列車は何気ない表情のままのわたしを指宿駅に吐き出して、枕崎方面へ走り去った。脱線しっぱなしの「望郷阿呆列車」で体調はふるわず、疲れていた。
温泉ホテル吟松のごちそうは、晴れ上がった翌早朝の日の出だった。大隅半島の稜線を昇る太陽は荘厳の趣きさえあった。赫赫と輝いて、つい柏手を打ちそうになった。
昨日は、ホテル横手の海辺にある名物の砂風呂へは足を運ばなかった。知覧へ行けなかったことで、何かを自粛する気持ちがあったことは確かだ。
第6日目の9月7日、指宿から鹿児島中央駅に戻る。いよいよ新幹線乗車だ。列車は、山陽新幹線でもふれたが、最新型のN700系で時速300キロが出る。
午前11時30分、新大阪駅行きさくら562号は鹿児島中央駅を定刻発車した。新青森駅まで2117キロ、いよいよ列島縦断の旅の始まりである。
ちなみに、本州と九州を結ぶ関門海底トンネルは1942年に開通している。それまでは連絡船で関門海峡を渡らなければならず、九州から、例えば上京するにはずいぶんと長時間かかった。
夏目漱石は明治末期の著作『三四郎』で、福岡から上京する主人公を神戸で1泊させ、さらに名古屋でも泊めている。
鉄道好きの作家関川夏央氏が、自著『汽車旅放浪記』(新潮社刊)で三四郎青年の上京の足跡を検証しているのだが、これが昭和期に入ると九州と東京はぐんと接近する。
時刻表マニアでもある作家・宮脇俊三氏の『時刻表昭和史』(角川書店刊)に1944年当時の時刻表が載っており、東京駅を午前11時に出発する特急が鹿児島駅に翌日の午後5時50分には到着した。