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ゲバラと共に戦った前村=ブラジル親族と再会したボリビア子孫=第2回=社会変革求める真面目さ=キューバ留学でゲバラに

ニッケイ新聞 2012年2月14日付け

 フレディの父前村純吉(1893—1959)の出身地、鹿児島県揖宿郡頴娃町(いぶすきぐんえいちょう=現南九州市)は九州最南端だ。
 1913年10月に紀洋丸でペルーに移住した純吉は最初、カニエテの大農場でコロノ生活を送った。8人兄弟の2人目で、その数年後に弟重春も後を追った。
 純吉は前宣伝と違ってまったくお金の残らないコロノ生活に見切りをつけ、ボリビア国ベニ州都トゥリニダーという最貧地に再移住した。アンデス山脈の標高5千メートルの山道を徒歩で越えて、ボリビア移民の草分けとなった。
 この地域はアマゾン川源流に位置する天然ゴムの大産地だった。この時代にゴム採取人として日本移民が多数入った名残りで、「トキオ」(東京)、「ハポン」(日本)、「ヨコハマ」(横浜)、サカタ、イシヤマ、イタキといった日本語に由来する地名が残っている(『侍』55頁)。
 スペイン系三世のローザを妻に娶ったことから純吉は永住の覚悟を決めた。ゴムの仲買で資金を貯え、現地人向けの食料や衣料などの雑貨屋を始め、裕福な生活を維持した。38年に長女マリーが生れ、フレディは5人兄弟の3人目だった。子供にはみな高等教育を受けさせた。マリーは「父は聡明で力強く、口数が少ない働き者」(『侍』62頁)と記す。
 マリーが鹿児島県で見つけた書類には、父が戦前に祖国の軍部に大金を寄附した感謝状(同69頁)があった。ボリビアに暮らしていても強い愛国心を持っていた。戦争中、ペルーでは日系社会指導者が根こそぎ米国に強制収容されたが、ボリビアでも日本人迫害はあったという。
 そんな41年にフレディは誕生した。エクトルは幼少時のフレディの心情を、こう代弁する。「自分は裕福な生活をしているが、通っている公立学校には貧しい現地人子弟がたくさん通っており、その社会格差の現実に幼い頃から心を悩ませた。彼らを助けたいという気持ちからフレディは医者を志した」。治療は費用がかかる、貧しい人々を助けたい、そう考えて医者を志した。
 ゲバラも、裕福な家庭に育って医学部へ進み、貧富の格差の解消を願って革命家になった。どこか共通したものがある。
 50年代半ば、ボリビアの学生闘争の中心地として有名だった国立8月6日学校(高校)に入学して政治に目覚め、共産党青年部に入党した。
 医者になるには最高峰のラ・パス大学しかなかったが、当時は反共主義者で有名な学長だった。彼は共産党員の入学を認めなかったためにキューバに進学した。
 59年にバティスタ大統領が国外逃亡したことでキューバ革命は達成され、世界中に赤色の夢をばら撒いた時代であり、その英雄がゲバラだった。革命政府が募集した奨学金留学生には応募が殺到し、フレディはボリビア人第1期生としてハバナに留学した。
 エクトルは「両親や家族は、フレディは真面目にキューバで医学の勉強を続けていると思っていた」。でも大学でゲバラと出合って革命思想に目覚めていた。
 最初は貧困者への医療行為が彼らの肉体的な苦痛を和らげると考えていたが、社会をみる目が深まるに従い、「ボリビアのような貧しい国々での病死の主な原因は、経済・社会の後発性、極貧、幼児の栄養失調、連綿と続く飢餓だと気づいた」(『侍』7頁)とある。
 つまり、医療行為よりも政治体制や社会を変革することこそが、本当の意味での不平等是正や貧者救済になるのだとの考えに行き着いていた。(つづく、敬称略、深沢正雪記者)

写真=ペルー時代に撮影した前村純吉(右)と弟の重春(前村家所蔵)