ニッケイ新聞 2012年2月15日付け
共同通信の名波正晴記者が09年4月15日付けで配信したフレディに関する記事には、《東西緊張の「最前線」にいたフレディは、ハバナで毎週末、ゲバラが留学生らと開いていた学習会に参加。「寡頭(かとう)支配から中南米の解放」を熱く説くゲバラの理想に祖国ボリビアの貧富の格差を思い重ねた。ハバナ郊外での秘密軍事訓練にも加わり、66年11月、祖国に偽名で潜入した》とある。
フレディが学校時代を過ごした50年代後半は「ボリビア革命」と呼ばれた時代だった。32年にパラグアイとの間で起きたチャコ戦争に敗れたことで、ボリビア国内では民族意識が高まり、変革を求めた民衆は多くの民族的政党を誕生させた。
その一つが41年に誕生したMNR(民族革命運動党)で、軍による鉱山労働者虐殺事件をきっかけに、彼等を組織化して急速に勢力を拡大し、51年の選挙で大勝利を果たした。
産業構造が変わる中で労働者が増え、労組が急激に力を持つようになった。彼らの存在は、ソ連を後ろ盾とする国際的潮流である共産主義思想と「ボリビア人性」尊重のナショナリズム的運動が合わさって社会変革を目指す合流点となった。
一方、急激な社会変化を嫌う保守の牙城たる軍部には、「反共」という共通利害を持つ米国が後ろ盾になるという国際的な対立構図が生まれた。米国の裏庭で革命を実現させたキューバが拠点となり、英雄ゲバラが革命の炎を南米全体に飛び火させようと飛び込んだことで、冷戦構造の最前線は南米の僻地ボリビアの山奥に舞台が移った。
左派勢力の拡大を認めたくない軍部と対立し、MNRは鉱山労働者や国家警察部隊らと52年に首都で武装蜂起して政権を取り、軍部解体、小農への農地分配、義務教育制度導入などの社会の大変革「ボリビア革命」を始めた。この時代に日本人戦後移民は入植した。54年から沖縄県や九州からの炭鉱離職者らを中心とする移住者がサンタクルス州に入り、コロニア・オキナワやサンフアン移住地を開拓した。
もともと国家基盤が貧弱なわりに行政機構の肥大化が進み、インフレ進行による経済弱体化が起きた。米国や国際通貨基金(IMF)の指示を受けて経済再建を図ったが効果は現われず、左派と中道・右派とが対立を深める結果を招いた。
64年にMNRは分裂し、その間隙を縫って64年11月に米国が支援する軍部が再建して軍事クーデターを起こし、革命政権は終わった。キューバ留学中のフレディはどんな思いでその報に接したことだろう。大統領を国外に追放し、副大統領だったオルトゥーニョ自らが軍事評議会議長を名乗り、軍事政権が樹立された。
ゲバラはこの不安定な政情に注目し、民衆には気運が熟しており、軍事政権を倒せば本物の革命が成就され「ラ米革命の発火点になる」と考えた。軍部から激しい弾圧を受けていた鉱山労働者や学生には抵抗運動が生まれつつあり、それを支援する形で革命を起こそうとゲバラは潜入していた。
フレディは家族には知らせなかった。67年10月にボリビアの新聞が「死んだゲリラ」リストを掲載した中にフレディの名を見つけた前村家は驚いた。
ヘクトルは、「母ローザはフレディが自分の子供の中で最も日本人らしい特性、真面目さや勤勉さを持っていると愛していた。いわば侍の気質を受け継いでいた。フレディはその期待に応えて一生懸命に勉強していた。だから革命運動に身を投じたときいた時、心から嘆き悲しんだ。侍の特性がゲバラの影響で社会の不正を糺す方向に発揮された」とみている。
ヘクトルは続ける。「息子を深く愛していたローザは『何かの間違いだ。フレディはキューバで医者になっているはず』とわざわざハバナまで探しに行った。あの真面目で勤勉なフレディが革命家になって反政府活動をしているとは信じられなかった」。ハバナの大学でローザはフレディが医学部で一番の成績を取っていたことを知らされた。確かに優秀だった。
軍事政権はゲリラの関係者がキューバに渡ったと考え、帰国禁止処置をとった。苦慮したローザはいったんスペインに渡り、ブラジルを経由して陸路ひそかに歓迎されざる祖国に帰らなくてはならなかった。(つづく、敬称略、深沢正雪記者)
写真=ボリビアで家族といた頃の、表情にまだあどけなさが残るフレディ(前村家所蔵)